ものみの塔(エホバの証人)がやってきた。

 夕方何となく疲れて1時間半ぐらい寝たせいか、なかなか眠くならない。そういえば、今日の昼頃来客があった事を思い出した。

 我が町は、エホバの証人の会館がある。普段走る練習コースからもよく見えるのだが、人がいるのを見かけたことはない。しかしそこから来たと言い、年に2度ほど彼女たち(男は子供以外見たことがない)は訪れる。これまでは、『目覚めよ!!』とか『ものみの塔』とかの冊子をもって来るのですぐ分かるのだが、今回はそういうものを持っておらず『私たち、町内にあるクリスチャンの団体から来ました。』と自己紹介した。歳は50前後と30ぐらいか、、。
 すぐに素性は分かったが、これまでこのような説明を聞いたことがなかったので、最近手法が変わったのかと思い2,3質問をしてみた。

質問1  クリスチャンだと言うが、イエスを自らの救い主だとしているのかということ。
質問2  イエスを創造主自身だと理解しているのかということ。

結果どちらもNOだった。そこから『それじゃぁ、自分たちをクリスチャンだと説明して歩くのは少しおかしいのではないか』と私は続けた。クリスチャンというのは、イエスを『キリスト』つまり『救い主』として理解し主張する人たちを指して呼ばれるようになった呼び名だ。そうでないあなた方が、その呼び名を使うのは適当でないのではないかな  と、、、、。

 すると、すこしカチンと来たようで、『旦那さんはたくさん勉強されているようですが、そういう理解なのですか』というので、『いや、私がどう理解するかとかではなくて、一般にはそういう見解なんですよ。確かにあなたがどう解釈するかは自由ですけど』と答えた。

 間を置かず質問が来た。『キリストというのはどういう意味があるのかご存じですか?』 さっき話したはずですけれどと答えるとこう続けた。『キリストというのはヘブル語で書かれていて油注がれた者という意味があるんですよ』と、、。ちょっと待ってくれ、適当な事をいわないでくれ、キリストはギリシャ語ではないかな? と問いただすとそれには答えずに『新約聖書が書かれた頃はまだギリシャ語は公用語ではなかったんですよ』とこれまでの会話とどういう繋がりがあるのか全く分からないことを話してきた。
 これには、なんと答えて良いのか分からないので黙っていると、『聖書は、いろいろ勉強すると本当に面白いんですよ。旦那さんもいろいろ調べて見て下さい。それじゃ、失礼します』と一方的に会話を終了して帰ってしまった。


 正味5分ほどのやりとりだったが、なんだか疲れる会話だった。というのも、せっかくまともに受け答えしているのに、向こうは全くこちらの言っていることを考慮せず、自分の知っている事を一方的に話すだけ。相手の言っていることをいったん受け止めて考えてみるという事を一切しない。こういう相手との会話は不毛に終わることが多い。エホバの証人の方が全てこうではないだろうが、新興宗教の勧誘にはこういうのが多い。
 なぜかというと理由がある。自己の思考をストップさせる機構が教えの中に入っているからだ。彼らは、自らでその教えを十分に吟味することなく素直に鵜呑みにしている。おそらく疑問を持つのは悪い事だとすり込まれているのだろう。そうなると、私のように教えられている事以外の事を聞いてこられると困るのだろう。人の話を聞いて自分なりに考えてみるということをしない。自分たちが、教えられている事のみで答えようとする。
 聖書が面白いのだと語っていたが、私にいわせるとまだ本当の面白さをあなたは知らないと言いたい。確かに、日本人は形而上的な概念が極端に乏しいので、世界はこう形作られているのだとそれらしい考え方を入れられると、不安定な精神状態にいる人ほど途端に吸収する。それはそれで当然のことで、そのことを面白いと感じるのかもしれないが、聖書の面白さはもっと深い。
 彼らは、聖書を学んでいると思っているだろうが、実際にはそれ自身に触れているのではなく、聖書をある独自の意図を持って味付けした訳のものを使い、そこから出てくるエッセンス、教理を学んでいるに過ぎない。確かにそれはそれで一つの解釈なのだが、教理を鵜呑みにしている限り聖書の奥深さを味わうことはない。それを疑い広範囲から聖書(様々な訳の)の裏付けを得ようとしたら、面白いものが見えてくるかもしれない。おそらく、聖書自身に触れながら意味を吟味する行為自体がまれであろう。もう、聖書の理解はこうすべきものというのが決まっていて、読み手が思考、検討すべき余地はないのであろう。イエスを造り主だとして見ないのだとすればヨハネによる福音書1章などはどう読み解くのだろうか? 急に会話を終了して帰ってしまったのでそんな事まで話す時間はなかったが興味がある。でもおそらく例の通り会話にならないだろう。

 以上の事を私は別にエホバの証人に対して特別に思っているわけではない。正当派キリスト教と呼ばれている教会にも、聖書、聖句を探求、吟味し続けていこうとしない硬直化した性質は多々見られる。もともとこんなものは、内容が深淵すぎて誰にも全貌を把握することは不可能なのだから、分かったつもりにならずにもっと自由に評価、検討しあったら良いのではないか。それが、聖書というテキストの最も味わい深い楽しみ方だと思うのだがなぁ。あっ、もう寝よう。 
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by dynabooksx | 2009-01-08 01:08 | 真也の雑記帳

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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