2007年 10月 15日
聖書の研究
用いているのは主に、新共同訳を中心として、岩波訳、フランシスコ会訳、柳生訳、現代訳の5つ、しばらくは、これらを統合する作業をすることになるだろう。それにしても膨大な時間がかかる。(とは言っても一日6、7時間投入すれば、新約は半年あれば大体行けるであろうが、、、) 通常の一章分平気で2,3時間はかかる。没頭すると今何でだったが忘れてしまうほどだ。
この作業を通して、2つのことに気づいた。一つは、私の知的能力がよみがえってゆくこと。完全に電子化していた私の指先が、細かい文字を書くことによって新たなセンスを持って行くのがわかる。私の学問的能力は全てここに投入するために神が用意されていたのだと思う次第である。
もう一つは、多数の聖書を比較検討する中で、私の愛する小グループでの学び(聖句の相互検討)と同等の効果が、この作業で得られるのだと認識するに至った。それぞれの訳者が言語が違う書物、しかも二千年(通常話し言葉は200年で通じなくなると言われる)も前に書かれた古典を、それぞれの角度から解する。それらに一つ一つ耳を傾けながら、違いを検討し統合していくのだ。何と楽しい作業なのだろうか。没頭すると、あたかもそこに訳者がいるような感覚になってくる。知らず知らずのうちに声を出して話しかけていたりする。(これを見た人は大変奇妙に写るだろう)
朝晩と、ここもずいぶん冷え込むようになってきた。集中するため身体が冷え切ってしまっているのにも気づかなかったようだ。ここ一週間は風邪で苦しんだ。皆さんも冷えには気をつけましょう。
by dynabooksx
| 2007-10-15 06:56
| 真也の視点