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あらためて、水谷惠信先生を紹介させて下さい。

 きょうあることから、久しぶりに余市恵泉塾に電話したところ、なんと来週8日月曜日にいわきで先生の講演会があることを知りました。先生の所に連れていきたい人がいたので何というタイミングでしょうか。


まずは7月余市行きのレポートから
恵泉塾1
恵泉塾2
恵泉塾3
恵泉塾4
恵泉塾5~驚くべき一致~


壊れた私、元気になった―北の大地で始まったいのちの教育
水谷 惠信 百万人の福音 / マナブックス
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6月に講演を聞いた水谷師の本です。神中心の生活により実際に立ち直った人の物語と惠泉塾の出来るまでを紹介してあります。



 あらためて、私の尊敬する師である先生の事を紹介したくなりました。私の言葉を長々と書くよりホームページの文を引用した方が良いでしょう。


あらためて、水谷惠信先生を紹介させて下さい。_a0023043_20453423.jpg


1.神の活躍舞台
 心傷つき、病み、疲れ果てて癒されぬ人々が大勢います。みんな決まって生真面目で、汚れなき魂の人々ばかりです。現代医学の力の及ばぬ領域に踏み迷って絶望の壁に向き合っているのです。精神科医でもなくカウンセラーでもない私たちに一体何ができるでしょうか。無力です。まったくの無力です。
 しかし、私たちが無力のどん底で神に叫ぶ゜と、神は応えて下さいます。「人にはできないことも神はにはできる。神には何でもできるからである。」と聖書が語っています。これは真実の言葉です。私たちは胸を張ってその証人である、と言うことができます。私たちが自分の無力を自覚して神に一切を委ねる時、神は不思議を行い給うのです。神の貧者、霊的貧者になり切る時、私たちの人生が神の活躍舞台になるのです。

2.神が貧者を招くための惠泉塾
 神はあらゆる敵意の中垣を取り払い、全人類、全被造物を正しい秩序に収め直し、不滅の“神の命”に生かす、という壮大なご計画を推進しておられます。
 私たちの惠泉塾はこの壮大なご計画の中のごく小さな部署を受け持つ、裏町のささやかな修理工場のような所です。どんな問題でも持ち込める便利な町工場の存在は、熱心な愛用者の口コミで、静かに「神に招かれている人」に知られて行っています。
 これは、ラザロのような“神の愛された貧者”です。人間のためではなく、“神のため”の聖なるご事業なのです。人間の自己満足のために、自分の夢や理想を実現する手段にすり替えることを許さない“聖なる領域”なのです。
 
3.福音の実証現場
 主なる神は、福音の力を今も実証し続けておられます。牧者である塾頭の水谷が主から賜った指名は、時代の罪の沈殿した吹きだまりに身をおいて、そこから神に執り成しの祈りを捧げることです。聖書の神は全能です。神との正しい関係に立ち帰る者には、溢れる恵みを与えて下さる御方です。神の実在を知らず、身勝手な生き方を推し進めて疲れ切った人をお迎えして、キリスト中心の生活に連れ戻し、悔い改めた特選の民として神の祭壇に捧げ直すのが牧者の聖なる任務なのです。
 余市の惠泉塾は、神の恵みに満ちています。生きた福音が語られ、心の奥底から迸る祈りが捧げられ、笑いに満ち、感謝に溢れ、貧しくても不思議な平安が全世界を支配しています。この生活が、都会生活に馴染んだ人々に、久しく忘れていた人間としての大切なことを思い出させてくれるのです。余市で私たちと共に暮らす間に、みんな神の光に照らされて輝き、元気になっていきます。神様はどの人も輝く存在としてお造りになっていたのです。私たちが輝けないのは、光から身を遠ざけて、自力で輝こうと努力しているからなのです。この世が教えてくれた常識をかなぐり捨て、永遠に変わらない神の言葉に忠実に従う、純朴で愚かな信徒の生涯を送り続けて、聖書の神が今もいきて働かれる(実在の神)であることを実証する意義を、私たちは、新たな来客を迎えるたびに、痛感しています。


恵泉塾で教えられること
塾頭 水谷恵信

1.神と私と家族
 惠泉塾は人生の港です。単に停泊するだけではなく、燃料の補充や傷口も修理する所です。更に大切な点は、航海計画の根本的見直しや乗組員の総入れ替えまでして、今後決して暗礁に乗り上げないで目的地に到達できるように、慎重かつ大胆に整備し直す所だ、ということです。
 私はその相談役です。右手に聖書、左手に経験知を備えて、様々な必要に応じています。その責任者は神です。
 私の妻は、この港の最初の利用者であり、その効力の一番確かな生き証人であり、協力者です。そしてまた、彼女と子供たちと私の織り成す家庭生活現場を披露することで、具体的な示唆を提供する貴重なモデルでもあります。
 我が家が理想的な家庭のモデルだ、というのではありません。現状がどうあろうと、それを神が取り扱っておられる、その神の御手を見せるための一つのモデルなのです。

2.隣人愛の効力
 聖書の「ルカによる福音書」10章にある善きサマリア人の例え話を読んで教えられることがあります。 
 追いはぎに襲われて裸にされ、半殺しの目にあって路傍に放置された哀れな男を目にした2種類の人物が登場します。祭司とレビ人という宗教的特権級と、サマリア人の旅という当時差別と軽蔑の対象であった一般庶民とです。前者はこの男を見ても避けて通り、助けようとしませんでした。後者はこの男を見ると憐れに思い、近寄って、我が身が男の血で汚れるのも厭わず傷口にオリーブ油と葡萄酒を注ぎ、包帯をしてあげて、自分の乗る驢馬に乗せ、旅の先を急ぐことを断念して宿屋に連れて行って介抱し、翌日は宿屋の主人に金を渡して自分の代わりに介抱してあげてくれと頼み、不足分は帰りがけにお支払いしますと言った、というのです。
 なぜこんなに違う対応があり得るのでしょうか。
 なぜ特権階級は心を閉ざし、一般庶民は心を開いたのでしょうか。
 祭司やレビ人は律法を学んでおり、弱者を愛すべきことは頭で理解していたが、実生活では体験がなかったのです。庶民の上に立つばかりで、奴隷のように仕えることがなかったのです。愛は仕えることだと知っていたのは貧しい庶民の方でした。
 何もかも不足していた彼らは助け合わずには生きていけなかったのです。弱いもの同士助け合う中で彼らは大切な真理を学んでいたと私は思います。つまり、愛は、受けるよりも与える側に幸いが多い、ということなのです。隣人愛に一歩踏み出す時、上から神の愛が内に押し寄せて来て、その人自身を神の命に満たすのです。塾生活で私もそれを学びました。

3.苦しみの役割
 なるべくなら苦しみは避けて通りたいものです。こんなに苦しむのなら死んだほうがました、とも思います。しかし、人は生きている間、苦しみが付き物で、苦しみなしに一生涯を終えた人のあるのを寡聞にして私は知りません。
 果たして苦しみは厭うべきものなのでしょうか。苦しみなしにはどんな成長もあり得ない、と我々は体験的に知っています。問題なのは苦しみの存在ではなく、苦しみを乗り越える方法が見つからないのではないでしょうか。永遠に乗り越えられないと思うような苦しみが辛いのです。
 苦しみを乗り越える方法に2種類あります。一つは刻苦勉励して障害を取り除き、努力を積み上げて自分自身を高めることで乗り越える方法です。もう一つはこだわりを捨てることで、それが苦しみでなくなる、という方法です。私自身は前者を教え込まれ、それに習熟してかなりの成果を収めましたが、最後はこれでは駄目だと気づかされました。個人差はあっても、この方法には結局限界があるのです。
 塾で私が薦めるのは後者です。人が苦しむのはそこにこだわりがあるからです。たとえば好きな酒が飲めなければ苦しいでしょう。愛する女と別れるのは苦しいでしょう。特権を失うのも富を失うのも苦しいに違いありません。みんなそこに執着があるからです。ほしい物は何でも勝ち取るという生き方は間違っていますから、苦しみによって妨げられます。神から与えられるものだけを何でも感謝して受け入れる、それが神の私たちに許された唯一の生き方なのです。

4・理想社会の姿
 私たちの先輩は暮らしやすさを目指して力走したように私は思います。そのために多くの発明をしたし、施設を建てました。便利で衛生的で快適に暮らせる都会生活ができあがりました。しかし、それは軌道を外れずに元気に働ける間だけ楽しめる社会なのです。一歩軌道を外れ、健康を損なうと、締め出されます。社会は彼らを施設に送り込み、記憶から消し去ります。自分を疎外した社会を肯定し、憐れみを乞い頭を下げて施設からの返り咲きを願うのは何と屈辱的ではありませんか。
 神はすべての被造物を貫く秩序と調和の世界を企画されました。どんな生き物でも生活空間が保障され、食物を供給されます。弱肉強食は神の意図しない法則です。むしろ、愛に基づく協力関係が平和をもたらす社会こそ神の望みなのです。神が本来望まれたとおりの社会へと私は社会の変革を願っています。



ーーーーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーーーーーーーーー


 どうでしょう。実際に働きを見なくてはそんなきれい事と思われるかもしれませんが、そこには本当に奇跡があります。神は私たちの想像上の産物ではなく、今も生きて働いておられる事を自分の目で見ることができます。真剣に救霊の思いがある者は高くアンテナを張りこういった働きを自分で確認するべきです。私は、私たちの現実の問題を解決することのできない名前ばかりの宗教には興味がありません。命のない宗教、教会はむしろ人を殺します。クリスチャンの皆さん、今の現状にあきらめないで下さい。私たちにできないことでも主はなして下さいます。私たちが行き詰まる多くの場合、神は私たちを招いておられるのです。恵みの中に生きるように、自分の力を捨てて、神からの良いものに満ちて生きてゆくようにと呼びかけておられるのです。苦しんでいる人、痛んでいる人は神の正解に非常に近いところにいると言えます。痛みを隠さないで下さい。傷を隠さないで下さい。神はそれを癒すことができない方ではありません。

 傷は時間が癒してくれると言いますが、本当にそうでしょうか? 身体の傷ならば、生きていれば大抵のものは自然に治っていきますが、心の傷、特に子ども時代から引きずっている深い傷などはそう簡単に解決するものではないでしょう。傷の痛みゆえに蓋をし、それがないかのようにして生きてゆく歩みは大変危ういものです。一件は、何事もないようですが、それは内側から化膿し、腐敗させ、ある時蓋ごと崩れ去るのです。
 私は、どんな心の傷も直して下さる方がいる事を自分の経験から知っています。その方に、傷ついたままもたれかかるとき、私の人生に驚くべき事が起きました。私のこれからは、それを他の人々に分かつ為にあると言えましょう。恵泉塾はその働きのよきパートナーになるのだと思っています。
by dynabooksx | 2007-10-05 21:13 | 恵泉塾

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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