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愛は意志?

 私は、昔から浮き沈みが多いとか、感情表現が豊かだとかいわれてきた。要するに不安定だということだろう。結婚をし、またたくさんの人間関係に支えられる中で、何よりもキリストとの関係において充実を感じる時に変化してきたものもあるだろうが、中身は感情、感覚、直感人間であることを否定するつもりはない。

 以前、ある牧師から『愛は、感情ではなく意志なのだ』というメッセージを聞いたことがあった。随分前なので、部分的にしか覚えていないが、感情は低位で、意志が高位なのだというニュアンスは確実だったと思う。
 私がなぜこのテーマについて書こうと思ったか分かるだろうか? それは、キリスト教会全体に、感情は悪だという刷り込みがあるような気がしてならないからだ。確かに神が人を愛しキリストを送られたことに、並々ならぬ決意と強固な意志を読み取れる。しかし、私にはそこに豊かな感情も感じずにはいられない。
 教会が、感情を否定しそれを進んで取り扱うことをしないとき、人々のつきあいは希薄化し、うわべだけで笑顔を交わし、本心を隠すようになり、信仰と生活とか切り離されてゆくのではなかろうか。こういったものを外部の人は瞬間的にかぎ分ける。何かくさいぞ、、、と、、、。

 こんな風になってしまうのは、聖書のいう愛や、感情の役割についてゆがめられて理解され、また語られてきたからなのではないかと考えている。私は、感情は神が人に与えてくださった宝物だと思っている。人が最も人らしく、また同じく人格、感情をもつ神と豊かに交わるために必要不可欠なものであると、、、。
 イエス様を見てほしい。突然泣き出したり、怒りだしてあたりのテーブルをひっくり返したり、その心理を読み取れない者にとっては唐突で情緒不安定なやつだと思うかもしれないが、感情が豊か、また表現も豊かであるのは間違いない。(私には、そうにしか見えない)
 旧約の神を見てもまた然りだ。私は、イエスの内にある神性と旧約に出てくる神になんら違和感を覚えない。福音書の記者達が、聖霊によってイエスの人格の中に、自分たちが旧約聖書から学んで知っていた神と全く同じものがあるのだと悟った様子が目に浮かぶ。やりとりの中にうごめく神の思い、感情が見えないだろうか。

 確かに、愛は意志であり、どうやってもその人を扱うという決意があるものだろうが、同時にその人に対する愛情、愛着、つまり感情が豊かにあるのが普通ではないか。それまで含めて初めて愛ではないのかと思うのだ。それなのに、感情が卑下され除外されてしまうのはなぜだろう。

 これについて最近一つの結論に到った。愛について大切な理解が一つ抜け落ちているのだ。愛といっても種類がいくつかあるだろう。人が自分の身を守るために持っている自己保存欲求、自己愛は教えられなくとも本能的にもっていることだろう。ここれ扱いたいのは聖書でいう隣人愛についてだ。自己愛と隣人愛の絡みについて書くと、それはそれで長くなりそうなので、ここでは書かず、この隣人愛を愛だと定義する。
 愛は、自分たちの意志次第であると理解した場合、窮屈さを覚えないだろうか。そうだといえる人は正直な人だと思う。つまり扱いたいテーマは『愛はコントロールできるのか』ということなのだ。私がどっちだと言いたいかは書かずとも分かるだろう。コントロールできると教えられ実践する人は、たいていの場合挫折し、自分は駄目なのだと思う。もしくはそう思いたくないために真実な姿を偽って、それらしく振る舞う。これが『くささ』の原因なのだろう。

 善いこととしようとする意志はありますが、行いが伴いません。私は自分の望む善いことをせず、のぞまない悪いことをしているのです。ローマ7章 フランシスコ会訳

このパウロの告白が正直な現実の人間の姿ではないだろうか。愛そうとする意志はあっても、それを実行することが出来ないのだ。このことから、愛は私たちがコントロール出来ないものであることを認めるべきだと思う。愛は、神の領域のものだ。私たちは神をコントロールすることは出来ない。わが社にも私の父が書いた聖句『神愛也』が額に入り壁に掛けてあるが、聖書は『神は愛です』と言っている。そうだとすれば、愛は神の領域のものであり、コントロール出来ないものと考えるのが自然でなかろうか。

 愛は神からの賜物である。賜物とは一方的に頂く恵みである。私たちの側ではどうすることも出来ない。私たちは、愛を求め実現しようとするがそれを為すことができない。だからこそ、渇き、求めて神を礼拝するのだ。そこから来るものには神の豊かな感情も付随する。神が私たちをどれほど大切に思っているかを知り、その感情に支配されるときにはじめて真に人を愛することができる。律法を成就することが可能になる。この理解だが定着するなら、クリスチャンは人を愛せないという姿を隠すことなく堂々と神の御前に進み、教会はもっと自由で人間味のある所になるのではないかと思う。

なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5章
 
by dynabooksx | 2007-09-23 06:52 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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