境界線

境界線(バウンダリーズ)―聖書が語る人間関係の大原則
中村 佐知 / / 地引網出版

 ライフログにも追加しておいたが、このような本を今読んでいる。まだ半ばだが要旨はだいたい読めたと思う。表紙に書いてある紹介を書きます。

   ーーーーーーーー以下引用ーーーーーーーーー

 境界線とは、他者と自分を区別し、自分が何者であるかを定義します。しかし、壁ではありません。自分の責任範囲を定めつつ他者との健全な関係を生み出すためのものです。特に『共依存』からあなたを守ります。


 人は、愛に満ち献身的であろうとするばかりに、自分の限界を忘れてしまうことがよくあります。あなたも次のように思ったことはありませんか?

★限度を保ちつつ、なお愛に満ちた人であることは可能だろうか?
★私の時間、愛、エネルギー、そしてお金をほしがる人に対して、どう答えたらいいんだろうか?
★境界線を引こうとするとき、罪悪感を覚えるのはなぜだろうか?

著者は、上記のような困難な疑問に聖書的な答えを与え、両親、配偶者、子供、同僚、さらには自分自身との間に健全な境界線を引く方法を、分かりやすく解説します。境界線(バウンダリー)とは、個人的な所有物を囲う地境のことで、あなたがどういう人間であり、どういう人間ではないのかを定義します。この境界線はあなたの生活全般に関わってきます。

身体的境界線:他者があなたの体に触れることが許される条件を明確にします。
精神的境界線:あなたに自分自身の考えや意見を持つ自由を与えます。
感情的境界線:自分の感情に対処し、他人の操作的な感情から自由になるように助けます。
霊的境界線:神の御心と自分自身の意志を見分けるのを助けます。

   ーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーー

 趣旨が何となくわかってもらえただろうか? 私の場合は、他者に圧迫を受けるとき反射的に防御姿勢なり攻撃姿勢を取るというのが、基本的なメンタリティー(つまり何にでも反発する心)だったので他者と自分の区別がつかないということに陥ることはなかった。どんなに人から非難を受けようと、憎まれようと自分は自分だと考えていたからだ。他人がしてくれるアドバイスであっても、私にとってどうかを吟味しないうちに適用することはほとんどなかった。私が、不器用に見えるのはそのためだ。集団で活動する中であっても、自己を埋没させるような事は出来なかった。そういったとき、頭の中で警笛を鳴らす何かがあった。

 かつて、どうして私はこんなにも他者と交わることができないのかと悩んだが、神と深い交わりをするにつけ、どうしてこのような人生を歩んできたのかが明確になってきた。これまで、私は自己の主体性を確保するため境界線の作成に奔走してきた。人間関係は互いに適切な境界線がなければ自由な交わりは難しい。人は適切な境界線を自分の周辺に引く事が出来ないため、本来遠ざけておくべきものを容易に受け入れてしまう。それによって、自らが崩れていってしまうのを知っていながら排除出来なくなる。NOをいう訓練をされないで成長してしまった大人は不幸だ。危険な現状に直面している。大きく傷つけば、今度は良いものを受けることも難しくなる。恐れのため壁を高く作るからだ。霊的分別力がいかに大切なものだろうかと考えさせられる。

 私の境界線は、常にある方法をもって造られてきたのだと思う。それは密室だ。神との一対一の交わり、それが私に他者の攻撃、非難にも耐え得る明確な境界線をもたらした。神は啓示によって呼びかけ、荒野、密室へと導いた。祈りによって形作られている人は、一目見るとすぐに分かる。周りに密室で形作ったオーラをまとっているからだ。恵みに満ちているそのオーラは境界線により、悪を遠ざけ、恵みを周りの人にもたらす。聖霊の内住がそれを保持するからだ。

 現代において、なぜここまで本来当たり前に持っているはずの境界線がこんなにもゆがみ、侵されるのだろうか。日本の社会の場合、本音と建て前、裏と表、正直、誠実ではない生き方がまっすぐ境界線を見つめて交わる生き方を困難にしているのではないかと思う。また、人は神を見いださなくては、自己を明確に認識できず人生の意味を求めて彷徨し、離れれば離れるほど命を失い、元の塵の姿へと戻っていく。
 クリスチャンになると、人を傷つけることも傷つけられることもなくなると考える人がいる。確かに、深い部分が満たされるので、傷を感じなくなってくるというのは事実だ。人に傷つけられないかというと攻撃されていてもそれをさほど痛みだと感じなくなるという事もあるが、攻撃を受けなくなるということはないだろう。 次に人を傷つけるということだが、これは大いにあるというより私の場合、より意識する場合が増えている。何を言っているのか全く分からない方もいるだろう。
 人は、その人を愛するがゆえに傷をつけるということがあるのだ。旧約で言えば割礼が良い例だろうし、新約では十字架がまさにそうだろう。イエスはユダヤ人達にとって『つまずきの石』となられた。皆がそれにつまずき彼を十字架にかけた。彼を慕い後に従った弟子達も、この出来事によって大きく傷ついた。部屋にこもって出てこられないほどにだ。
 神は、人がこのままでは滅びに行くしかないと思われるとき、それまでの生き方に大きな打撃、傷をお与えになる。しかしそれは、人に罪に死に、復活の命を与える目的から行うことなのだ。傷つくことを恐れないでほしい。神の恵みはそれを覆ってあまりある。神はあなたのその傷に入り込み、それを癒すことによって関係を回復されようとしている。傷は隠したままでいれば、そこから腐敗し病が全体へと広がっていくが、光の中に照らされれば命を受ける。

 水谷先生が言ったように私の武器はこのまっすぐさだと自認している。このまっすぐさでもって、神に全てを求めていこう。その正義と真実さと愛とを私の周りの人がみな包まれるまで、走り続けよう。
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by dynabooksx | 2007-09-15 09:42 | 真也の雑記帳

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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