2007年 09月 07日
自己放棄と自己実現
さて、今回のタイトル。少し興味を引いていただけたでしょうか。これは、キリスト教会でよく使われる? 文言ですが、7月の恵泉塾行きの際、このことについて印象的なやりとりがありました。そのことについて2つ書かせていただきます。
恵泉塾での聖書セミナーが2日目、3日目と大詰めになってきた頃、セミナー生の内からある声が聞かれるようになっていました。
『今まで教会でずっと聞いてきた話と違う。何か聞き違えて来たのだろうか? それとも違えて教えられてきたのだろうか、、、』
後半に入ると、先生の熱も増し自己犠牲の愛を繰り返し語るようになっていった。セミナー生の質疑応答にも『あなたは自分の人生を主に任せてはいない』と言うように厳しく語るようになった。場の雰囲気がぐっと締まっていくのが分かった。私もせっかく来たからには様々のものを引き出そうと、質問をたくさんした。講義毎に一つはしようと意気込んでいったが、最後の方はあまりにも納得で問を作ることに苦慮した。
私は、私自身の疑問もあったが、出席している人がきっとこういう事を聞きたいのではないかと思われる事も聞いた。信仰は自己実現ではなく、神の御心に生きることは分かる。しかし、それを本当に理解できる人は体重を乗っけて神に頼ることを知っている人だけだ。そうでなければ、自己犠牲はただ死んでいくのみになってしまう。
ここが確かに難しいところだ。誰も自分に死んだり苦しい思いはしたくはない。だが、自分で操縦桿を握っている限りは、神のダイナミックさは味わえない。だから、自分に死なざるを得ないほど追い詰められる経験をする人は、幸いな人だといえるだろう。操縦桿を自分から神へ、生き方の軸を変えるのには自己完結型の悔い改めでは用を為さない。ハ・ヨンジョ師は悔い改めも2つの種類があると語っていた。一つは律法による悔い改め。もう一つは恵みによる悔い改めだ。前者は神なしでもすることが出来る。自分で自分の生き方を評価し修正していくのだ。したがって、この延長で行く限り操縦桿を離すことはあり得ないのだ。
自己犠牲なのだと繰り返す水谷先生に一言いいたい気持ちがこみ上げて来て目があった瞬間質問をした。
『先生、私たちが自己を放棄していくことは、結局神が私たちを創られた本当の目的に私たちが気付き、自己を実現していくことになりますね』
こんな事を先生が気づかないはずはないとは分かってはいたが、聴衆の気持ちになって問うた。先生は実例をもって答えてくれた。
『今、彼(私のこと)が質問したのはこういう事です。私(水谷先生のこと)は、人を助けるために医者になりたくて、医学部を目指しました。しかし受験に失敗して文学部に入ったわけです。それはそれで大好きな世界でしたから、それを探求し高校の教員として働き、生徒を指導し、同時に牧師としても働いてきました。しかし、召命をうけ全てを捨てて恵泉塾をはじめた。他のものを失っても、教員として働き家族を養っているのだというプライドだけは失いたくなかった。しかしそれを捧げたとき、全てのものが来た。結果、今から振り返ってみると、結局医者も治せない病気を治す医者をしておった』と、、、、。
先月のQTのコラムにもあった。長くなるので一部引用します。ある神学博士と青年の会話です。
青年はこう尋ねました。『イエス様は私たちが他の人のために奉仕し、自らを犠牲にすることを望んでおられます。ならば、私たちが目標を立て、全力を尽くし、自分のやりたいことをするのは利己的な罪となるのでしょうか?』シェーファー博士はこう答えました。
『人間が堕落する前はそんな葛藤は存在しなかったでしょう。しかし人が堕落してからその心が腐敗し、自己成就と奉仕が葛藤する関係になったのです、、。』
自己の願いと、神の御心が一致している人は幸いな人です。その人は、全てのことを神からの追い風の下に為すことが出来るからです。私は、かつての私の内にあったもの、パウロ風に言えば肉から来たものが、どれほど自分を苦しめたのか覚えています。私の行動を二つに引き裂くようにそれは働くのでした。私の内にあった、どんな知恵もそれを御することは出来ませんでした。むしろ、より苦しいところに導いてゆくのでした。
キリストの十字架と復活は、私の中に赦しと一致を生み出しました。肉は、私を苦しめる存在ではなく、霊によって喜んで従うものとなりました。私の苦しみ自体が、喜びへと導く手段であると見方が変わったからです。最後に御言葉を一つ。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。マタイ16章25章
二つ書くつもりでしたが、一つしか書けませんでした。続きはまたに、、。
by dynabooksx
| 2007-09-07 15:38
| 真也の視点