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一生懸命に努力すること

 私たちの世代は、団塊の世代である親たちからまず必死になって努力することを教え込まれた。何はともあれ一生懸命頑張れば良い結果が付いてくると、、、。

 確かに、親たちの世代は若いときに高度成長を経験し、国全体が戦後復興から物質的な豊かさへと一つの目標に向かって歩み、著しい成果をあげた時代だった。その彼らが、このような価値観を持っていることは想像に難くない。しかし、それから時代は大きく揺れた。それまで絶対的優位だと思われていた経済は疲弊し、豊かさと引き替えに、貧しいながらも協力と一致をしていた家族や共同体は崩壊し、悲惨な犯罪ばかりが目に付くようになる。高い教育により教養を身につけたはずの国家の指導者達は、冗談ではないかと思われるような失態を繰り返し悔い改める事もせず、この国の子供達はこの国の未来を冷ややかな気持ちで見ている。

 我々の世代は、この中間に位置している。自らの努力に没頭する上の世代のまっすぐさと、そのもろさの両方を見ているのだ。学校では次のような指導を受けてきた。

 『人に迷惑をかけず自分の責任は、自分で取りなさい』『未来が良くなるのも、悪くなるのも、自らの努力次第だ』と、、、。

 これについて、多くの人は違和感を感じないだろう。社会通念に照らしてみても整合性がとれるだろう。しかし、なぜだろうか。私は小さな頃から、このことに疑問を持ち続けてきた。普通なら、素直にその助言を聞き入れ周りに馴染むように努力するのだが、どうしてもそれをすることが出来なかった。その能力がなかったといえるかもしれないが、どうしても腑に落ちなかったのだ。
 私は、小学校低学年の頃から私の中に渦巻く激しいエネルギーの扱いに苦慮していた。どうにも理性で制御することが出来ないものが自分の中にあることを感じていた。それ故に、私は他人と楽しく交わり過ごすことが出来ないのだということを、早くから悟っていた。そのため、私はいつも一人でいることを好んだ。
 自分には、他からの助け、利己的で限りがありゆがんでいる人の力でない助けが必要なことをずっと感じていた。もし、それがないのだとしたら、早めに滅んでしまったほうが良いのにとも思った。
 学校、社会での教えはどんなに取り入れようとしても、私の救いにはなり得なかった。


 聖書の神に出会ったとき、私の価値観はひっくり返った。それまで心の中にずっと支えて、押し殺していたものが一気に解放されていくように感じた。私は、自らの力ではなく神の恵みによって生きるように創られていた事を知ったのだ。それまでの疑問は確信へと変わった。ずっと感じていた違和感は、もっともな事だったのだと悟った。そしてその違和感は、私の魂のふるさとがこの世にないから来るのだということを知った。
 それまで圧迫され、抑圧されていた自分の人生に、次々と新しい意味づけをされていくようだった。恵みによってだけ生きる決心をする私に、神は『あなたを祝福する』という言葉を下さった。

 他から見れば、私の行動を見て『一生懸命している』と見えるかもしれない。(または、自堕落で何もしていないと評価するかも、、、) それも、間違ってはいないと思う。見た目にはそう見えるかもしれないが、以前の私とは内面を動かしているものが全く違う。動けば体は疲れるが、心が疲れることはない。むしろ働けば働くほど充実してくる感じなのだ。特に、行動の的が一本に絞れているように感じるときの充実感は、他に味わうことの出来ないものだ。主がそれを喜んでいることを感じるからだ。

 私は、救いをずっと待ち望んでいた。どこまで行っても、自分の中には解決がなかった。誰かが私を引き上げてくれることなしには、この泥沼から抜けることは出来なかった。人間の努力を超えたものがあることを認めてほしい。


追記で、、、
 そこまで書くかどうか迷ったのだが、やはり書こう。私たちが目標を立て、それに向かい全力を尽くす。その延長に神が働かれるのだという考え方に対して、私は反対する。私たちの努力は、良いものをもたらさない。確かに、人を愛するということは努力を必要とするだろう。しかし、これは神が必要なものを備えて初めて可能になることだ。そうであるかのように見せかけることは、相手を愛により立ち上がらせるというよりその人をより依存させ、ダメにしてしまう結果をもたらすだろう。
 教会でも、そこを明確に語ることを怠り、奉仕に妥協を導入した途端、パン種のようにそれは全体に広がり膨らませる。それによって、働きがうまく広がったと錯覚してしまい、その後急に萎みはじめたのに気付いた頃ではもう遅いのだ。恵みを失わせてしまう要素について、私たちは戦い続けなくてはならない。霊的な視点をもって未来を予測し、手を打たなければならない。もし、敗北したと感じても、素早く悔い改める身軽さを保ちたい。
 まず、これまで為したあらゆる努力、成果を神の前に正しく評価していただき裁きを待ちたい。きっとその御想いと私たちのあるべき姿勢を教えてくださるでしょう。
by dynabooksx | 2007-09-05 08:07 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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