私の戦い方

 昨日は、町民体育祭の花である地区対抗リレーに出た。私のチームは30代の人が集まらず、50代の人がもう一つの枠に入っていた。スタートだけは避けたかったが、もう一人が50代のためやむを得ず先頭ランナーとなった。スタートラインを見回してみると、私の他に同級生が二人、どちらも学生時代陸上短距離をしていた強者だった。今ではどの程度運動しているか分からないが、一人の方は日々サーフィンで鍛えていると聞く。
 私の場合、瞬発系の脚質ではないため100メートルよりは200、400、800と長いほど有利になる。まず100メートル程度では、波に乗ってくる前に終わるであろう。しかし、現実の勝負はそんな単純なものではない。戦い方は様々ある。私には私の戦い方がある。
 スタートラインで祈りを捧げた。ヨエル書の神の霊の降臨の所をイメージした。ふと力がすべて抜けた。一番外側のレーンなので、一気に中に割り込むことは難しい。周りは自信満々で構えている。私は首を振ってのびをしていた。

 いざスタート、やはり一番後で列に入った。スピードを上げてカーブに入った途端!! 同級生の一人が転倒、それに書き込まれもう一人も転倒、目の前だったが、姿勢を崩すのがスローモーションのように見えた。素早く上を飛び越える。直後、もう一人の同級生も転倒。それも、勢いを殺さないまま飛び越えた。そのまま、次の走者にバトンを渡す、、、。


 これは、仲間内でのやらせではない。現実にはこのようなことが多々ある。まともに力と力がぶつかれば勝負は決まるかもしれないが、現実の事象ではそのようなことはほとんどない。イスラエルとペリシテにおいてのダビデの戦い方がそれをよく現しているだろう。突然襲い来るように見えるアクシデントに対して、もっとも適応力があるのは、自分自身の思いから自由になり、リラックスして楽しんで物事に当たる者だ。自分の考えに埋没していなければ、物事の変化に動揺しない。自分の考えや、為すことが最善だとは認識していないからだ。むしろ予想外の出来事を心待ちにしている。自らが動かしがたいことを、その出来事によって一気に変化させることができるかもしれないからである。
 神様のやり口は、いつも私たちの理解を超えている。私たちを追い込むようでいて、より良い方向へ導いていたりする。束縛するようで、解放に向かわせていたりする。自分の主観的な考えに浸っている限り、そのことに気付くことが出来ない。困難に遭うとき、そのことさえ片隅に入れておけば、困難はいつまでも困難ではあり得ない。

 物事がスムーズに進まないとき、私は立ち止まって自らの考え方、捉え方がずれていたのではないかと先ず考える。そういうときは、それ以上どんなに頑張っても、過去の経験から行き着くところが見えるからだ。その点を、神によって修正してもらうように祈るとき、問題はいつの間にか消えていき、全てが追い風に感じるようにと変えられていく。この体験を積み重ねていくと、問題を解決するのには、自分の力を鍛え、大きくし事に当たるよりも、自分のあり方を変える方が遥かに現実的な生き方であるように気付くようになる。

 しかし、勘違いしないでほしい。私たちは、世に習うなら滅びにしか到らない。自らを変えることを恐れないのは、確かな基準をもっているから出来ることなのだ。その基準は私の基準とは違って、揺らぐことはなく、とこしえに変わることがない。
 今の時代は、ポストモダンといわれ、人の数だけものの考え方があり、絶対というものはないのだといわれている。確かな基準などないと思われるかもしれない。しかし、これが混乱と混沌の原因なのだ。

 確かな道は存在する。なぜあり得ないと思うのかというと、私たち人類の叡智を結集してもそれを見いだせないからである。つまり私たちの内にはどこまで行っても真理はないのである。このことに気付けば、いち早くこだわりを捨て、力を捨てることが出来るだろう。
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by dynabooksx | 2007-09-03 14:10 | 真也の雑記帳

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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