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レボリューションの続き

 先日真也の信条の所でレボリューション ~今、教会に起こりつつある革命~の紹介と引用をしましたが、どなたか実物買って読んでいただけたでしょうか? 
 ブログのコメントに挨拶を述べていただいていましたが、この本の訳者は私のネット友達でした。私がかつてブログを開設した当時、フラー神学校からアクセスしていただいていたものでした。世間は狭いものです。前回は、気持ちが入りすぎて、信仰箇条を書くだけで終わってしまいましたが、もう少し詳しく感想を書いてみようと思います。

 私は、たいていの本を赤青鉛筆で線を引きながら読んでいくのですが、この本についても例外ではありません。今日午前中に、もう一度自分の引いた線を軸に全体を読み返しました。いくつかを引用しながら書こうと思ったのですが、全体が全体につながるような内容なので、直接の引用をせず私の中で消化されたものとして書きます。


 私は、信仰を持ってからずっと、聖書のいう『教会』のことをずっと考え、追い求めてきました。ここまでの歩みはそのためだけにあったといっても過言ではないでしょう。しかし、その気持ちとは裏腹に、神は私を砂漠のような所を通らせました。補足としていいますが、私にとっては砂漠のように感じたということです。そこにいた人が私と同じように感じていたというわけではないでしょう。それはそれで、それなりの結びつきや一体感を持ち、活動をしていたことでしょう。私にとっては、それが私と神の関係をさらに祝福するものだとは、その時は感じられなかったという意味です。また、現在の状態であれば、どこにいても新しいミニストリーを展開していくでしょうが、当時は自分自身の歩み自体が手探りで確かめながらの状態でしたので、それをどうこうしようとするエネルギー自体がありませんでした。

 しかし渇きのなかで、私はさらに自分と神との間がどんなものであるかを追い求めるようにと押し出されていきました。その中で、私の要求を大きく満たす大学の聖書研究会と出会い一生をつきあっていくであろう友達に出会いました。その後も、神は私を渇きと恵みの両方を与えながら導きます。

 一度は自分の育った団体に完全に失望する時に、別なクリスチャンを通して『あなたは本当に、その教会を愛しているのだねぇ』という言葉で力と慰めを得ました。私自身は自暴自棄になり、怒りと憎しみの中にいたはずなのに、その言葉で命を得ました。

 そう、本当は私は心からキリストの愛する教会をまた愛していたのだ、、、と。それでも、不思議なことに私が教会に深く足を踏み入れると、なぜかそれを許さない動きが同時に起きてきます。一部だとは思うのですが、なぜか教会の指導者達が私を警戒するのです。変な所鈍感なものですから、私はのびのびやっているのですが、きっと向こうは冷や冷やものだったのでしょう。

 私が行くところ、自然に解放が起きてしまうのです。それは仕方がないことでしょう。私がキリストに出会って起こったことが『十字架による罪からの解放』ですから、、、。私に近づく人は、否応なく奴隷から自由人へ解放されていきます。それを望む人は、ほっておいても向こうから近づいてきますし、そうでない人は遠くから警戒し近づかないように柵をこしらえるというわけです。
 私にとってそんな柵は何の意味も持ちませんが、その柵はそれを作る人にとっては自分自身を守る大切なものなので、それを無理に突き破るという事は私はしませんし、神はそれを許されないと思います。私にできることは、必死に自らが努力しなければ救われないという恐れの中にいる人々に、神ご自身が出会って下さるようにと祈ることぐらいです。
 表からはよく見えないでしょうが、キリスト教会の内部にもう破壊寸前のゆがみがあるとき、指導者達は何とか自分たちでそれを保ち、また隠そうと努力するでしょう。私はかつて、教会の破壊者だとか、サタンだとか呼ばれたことがあります。今ではもう随分慣れてしまいましたが(慣れるなってつっこみが入りそうだな、、、)そうして私を排除したとしても、その問題は去りませんし、神は全てそのことをご存じであり、再び来られるときにそのことに対して裁きを下さるでしょう。要するにどんな隠し事も意味をなさないということです。主だけが正義を持たれています。

 なんか、本の紹介と全然関わりのないような話になってしまいましたが、私は私に示される道を行きます。この本に拠るならば、これまで福音の発信は、常にキリスト教会(これまで考えられてきた地域教会としての)からされるべきものと考えられてきましたが、あと20年で大きく勢力図が変わるようです。霊的表現としての地域教会の果たす場所は現在の70%から30%になるというのです。これは、アメリカにおけるリサーチですが、これまでのあらゆる事がその後の日本に反映されていることを考えると、おそらく間違いないでしょう。冷静な頭脳をお持ちの方であれば、日本の地域教会が戦後全体でどのように推移してきたかを考えれば異論はないでしょう。
 しかし、このことで主の働きが鈍ったというわけでは決してないと思います。これは、地域教会が形骸化して主の御心を実現できなくなったということに過ぎないからです。私の張っているアンテナに、聖霊の息吹が伝わってきます。日本の各地で聖霊の風をそのままに受けて歩もうとしている人達が起きているからです。私はその人達と手を携えて歩みたい。この戦いを共に戦って行きたい。そのための助けをしたいと心から願っています。

 私の歩みは大変小さいものですが、主の計画の一部として大事な役割を担っていると自負しております。どこで何が起こるか全く予想は付きませんが、主は日々素晴らしいものを送って下さることを私は経験から知っています。


 年の若い牧会者、伝道者の方々へ

 私にも、同世代の牧師友達が数人います。だいたい神学校を出て、現場で3年ほどという人が多いですが、みな共通の壁というか悩みの中におられるように思います。これは、その人の献身の意味自体に直結する事で、大変重要なものであると思います。つまり、人を教会として牧する、囲うという事と、神の真理の前に一人の人間として立たせ独立させるということのジレンマです。
 耳にやさしい言葉を言って、外からの刺激がないように囲い守ってあげることは確かに抵抗力のない傷ついた人にとっては有効でしょうが、それを続けるとさらに抵抗力をなくしてしまう、、、。
 神の真理の壁の前に立たせ、神に従うのか、それともそれ以外のものに従うのかの厳しい選択を迫ることが必要でしょうが、それをすると信徒が逃げていってしまうのではないか、、。または、自立した信仰を持って教会から独立してゆくのではないかという恐れがあるのだと思います。
 でも、よく考えて見て下さい。その人が、牧会者を必要とせずにダイレクトに神と結びつきその働きを進めていこうとするのを悲しむ理由がありますか?
 私は、これを牧会する信徒に適用して話しましたが、これは牧会者自身においても同じ事なのです。牧会者が教会の中だけの生活に埋没し、信徒を囲うことに没頭していくときに、世に対する抵抗力を失っていきます。しだいに、自分の献身の意味自体を失って行くことでしょう。
 じゃぁ、どうしたら良いのだということになるのでしょうが、世の中と直接接点を持ち続ける事を意識すべきです。教会の生活はそれはそれとして、個人伝道の機会を多く持つべきです。私は、信徒を牧する。信徒は未信者を導く。または、信者を教会に連れてくる。とかいう役割分担をせずに、聖霊のみちびきのままに自由に制限なく活動をすれば良いのだと思います。好きなスポーツなどがあれば、クラブに入ってめいっぱい楽しめば良いのです。あなたの行動原理がしっかりと神の目的と結びつき、キリストの香りを放つものであれば、そこが絶好の伝道の機会になるでしょう。
 教会の指導者達は、あなた方を教会の内部に縛り付け奴隷としようとするかも知れません。しかし恐れないで下さい。あなた方を裁くことができるのは、創り主なる神だけです。あなた方を自由にすることができるのは、キリストから来る自由の霊です。誰もそれを妨げる事はできません。それをなされるのは神ご自身だからです。

 また、その活動のために私を必要とするならば喜んで協力させていただきたいと考えています。きっと、それぞれの上に神は素晴らしい計画を持たれていることでしょう。


追伸  そして、しつこいようですが、愛する救世軍の皆様へ

 私は、先の文で救世軍が再び立ち上がる等のことを何度か書きましたが、誤解のないように書き加えますと、正直私達より一世代上の人達がおそらくイメージしているであろう救世軍が復活することはおそらくないのだと思います。
 先日、7月に行われた全国大会のDVDを頂いて見ました。若い士官方が懸念していた、揺り戻しという意味が良く分かりました。もし、私がその場にいたのなら、すぐその場で大将へいくつかの質問をしたことでしょう。あの言い回し方では、内輪で満足させるだけの形式主義に戻ったと言われても仕方がありませんね。私も少々憤りを覚えました。
 『まず、軍隊なのだから、従え』という言葉。どのような気持ちで発言なさっているのでしょうか? どの程度日本のこの現状を把握しているのでしょうか? 本当に命自体を失うかも知れないという熾烈な霊的戦いの現状において、単に組織として上下関係なのだから従えといって、命を捨て戦うことが本当にできるでしょうか? これ以上、表面、上っ面で従い、喜んでいるふりをする人達をつくる事で満足できるのでしょうか? また、信仰を演じなくてはならないその苦しさをどれほど理解できますでしょうか?
 果たしてそんな人達が、今苦しみのただ中にいる人を本当に救いうるとお思いでしょうか? よく考えてください。ちょっと力が入りすぎましたね。
 きっと、これからも小隊の数は減っていくことでしょう。これまで継続してきた事業ももっと苦しくなっていくことでしょう。焦点を神にだけ合わせない限り、全てものは淘汰されていくでしょう。その中でも特徴的なビジョンを神から与えられ変化し続ける小隊は残って行くことでしょう。もしかしたら、士官が送れなくなって、管理が全く行き届かなくなり人のいなくなった地方の小隊からあるときリバイバルが起こるかもしれません。
 救世軍の発生を考えてみてください。当時の閉鎖的、保守的な教会の姿勢に我慢がならなかった不満分子達の集まりがそれです。皆勝手気ままに活動をしていきました。日本に救世軍が来たときも、それより前に勝手に救世軍を名乗って活動していた人達がいくつかありました。救世軍とはそういうものなのです。誰かさんのお気に入りの言葉を借りると『救世軍は湧くのだ』ということでしょう。
 何もないところから、神は救世軍を興します。神にだけ従い、人々の魂の救いのことだけを思い。日本の国を救おうという大志を持つ本当の救世軍を、、、。
by dynabooksx | 2007-08-21 15:31 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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