2007年 08月 04日
沈黙のタッチ
物音がしないと、ゆっくり寝るのかと思いきや反対に五感の感度が上がり敏感になる。普段すさまじい子供達の騒音の中で暮らしているので仕方ないと言えば仕方ないのだが、、。なんと、午前2時半に起きてしまった。再び寝ようと思っても目がぱっちり。ああ、これは昨日見たメッセージのせいに違いない。
聖書にはイエスが祈られていた場面がいくつもある。
群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。マタイ14:23
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。マルコ1:35
それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。マルコ6:46
しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。ルカ5:16
このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。 ルカ6:12
夜明け前から夜明けにいたる時間、空がゆっくりと白み、赤く色づいてくる時間、なんと贅沢な時間なのだろうか。イエスはことある毎にオリーブ山にいって祈られていた。私もよく、夜ふと家を抜け出し、真っ暗な農道を歩いたり裏山に登ったりする。不思議なことに視野が効かないとそれ以外の感覚器が敏感になり、より多くの情報を運んでくるようになる。 虫の音などは特にそうだ。同じ声で鳴いているはずだが、昼間より遥かに大きなスケールで感じる。真っ暗なそこに命の広がりを感じるのだ。通常普段の室内では、雑念を払い祈りに集中するのに時間がかかるのに対し、自宅裏のオリーブ山に上るとそれだけで祈りに入る準備が出来てしまう。なるほど、イエス様はうまいやり方を使ったものだと思うのだ。
誰もいない沈黙の中に、神は豊かなものを送ってくる。日常生活でふと失ってしまいそうな宝を再び気付かせてくれる。このことが、私の心と魂を甦らせ、神の目的へと私を造り替え、整えるのだ。基本的には、朝早くこの時間をまず多くとることにしているが、時間だけではないとはいえ、私の中で朝、1時間、30分と減って行くとしたら警笛が鳴っているのだと理解している。
私は救世軍歌集の『静けき祈りの』という歌が好きだ。一番の歌詞を書こう。
しずけきいのりの ときはいとたのし
なやみある世より われを呼びいだし
父のおおまえに すべてのもとめを
たずさえいたりて つぶさに告げしむ
英語名は Sweet hour of prayer です。作者の想いが伝わってくるようです。世の中からの圧迫に常にさらされる中で、造り主の前にすべての思いを打ち明けまた静まって御声を聞く。その時が唯一の慰めであり、喜びだったのでしょう。
私は、ものごごろついた頃から孤独を感じて育ってきました。そうであるのは私が私である以上避けられないのだと考えてきました。確かにクリスチャンは世にあって孤独です。しかし、キリストの生き方、人格に触れていくときに、悲しみの孤独から、喜びの孤独へと変えられていきます。信仰者がキリストへつながる孤独と死を味わって行くとき、その人はその世の何物にも揺らがされない宝を得て行くのでしょう。この世に居ながらにして天の御国を見るのです。
[03] 沈黙のタッチ ハ・ヨンジョ牧師
by dynabooksx
| 2007-08-04 11:57
| 信仰者の歩み