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カナン人は死なず、、

 この所、ずっとリビングライフによりヨシュア記を読んできましたが、昨日で無事24章まで終えることが出来ました。ヨシュア記は神が約束された土地を、イスラエル民族が先住民であるカナン人と戦いながら勝ち取り、相続していく物語です。民がこの戦いが神の戦いであり、完全なる信頼をおいて服従していくときに思いもよらない方法でいくつもの困難を乗り越えていきます。反対に、それを忘れ言いつけをまもり、自らの知恵や力を信じて歩むときに手痛いしっぺ返しにあいます。そしてその痛みからもう一度悔い改めをし、関係を回復していくのですが、これはヨシュア記だけではなく出エジプトから捕集に至るまで、さらに聖書全体がこの繰り返しを語っている、また新約の時代である私達キリスト教会の歩みも同じであることは歴史が示しています。

 ヨシュアに率いられたイスラエルの民がカナンに侵攻してゆく際、常に先住民との戦いがあります。倒しても倒してもカナン人は消えてなくなりません。征服が一通り完了しても民に敵対するカナン人は依然として生存しています。なぜ、神は約束の地を与えると約束してくださったのに、共同体に脅威をあたえる彼らを全て消し去ってしまわないのでしょう? このことを考えるにはまず、その前段階をふまえておく必要があります。

 神は、イスラエルがカナン人と戦う際、『聖絶』(すべて滅ぼし尽くすこと)を求められました。これは、現代の道徳観に照らしてみると非情だといえます。なぜ、愛の神である方が、他民族を根絶やしにしろなどというのでしょうか? 人間の視点で見ればそのようなことになりますが、人と神の関係・信仰によって読むならばこうです。
 確かに、先住民のいる土地に別な民族が入ってゆくということは、前に住んでいた人達がじゃあどうぞ、譲ってよそへ行ってくれることがなければ、成り立つはずはありません。一緒に住もうよという考え方もありますが、民の数は100人や200人でありません。何十万という人が、しかも共通の神を信じるという価値観をもって団結して進んできた民族がちょっと庭をちょうだいよということが出来るわけはありません。当然戦いによって勝ち取ることになりますが、戦い方も戦意を喪失させるだけで血を流さない方法もあるでしょう。しかし神は聖絶せよと命じられました。ここで重要なのは、イスラエル民族にとってカナン人は、容姿がきれいで背も高く、文化的にも進みまた物質的にも豊かであったため魅力的であったということです。確かにその地を受け継ぐために戦わなくてはならないが、彼らの中の良いものを頂いてしまうという選択がありました。通常私達見聞きしている占領と略奪はそうです。しかし、神はそれを許可なさりませんでした。すべて滅ぼし尽くせというのです。このため、イスラエル民族はつねにこの厳しい神に従うかどうかを、普通に人間の頭で考えればまったく勝ち目のない戦いや障害を前にして、神に頼るしか道がないというギリギリの所で試されていきます。もし、アカンのように、言いつけを破り、戦いで得たほんの少しの金銀をこっそり隠し持っていると、たった一人の行いだけで、部隊全体が敗北してしまいます。

 3月末に水谷恵信先生の講演を聴きに行った際、カナン人の存在理由を二つ語っていました。一つは、先に語ったように神を頼るかそれ以外のものを頼るかの2者択一を迫る中で、信仰を試し純化させていく役割。もう一つは、イスラエルの民がカナンに入った後、すぐに食料を得られるために土地を耕作しておく役割があったといいます。確かに、カナンに入り最初の収穫があった時点で、パタリと天からのマナは降らなくなります。何十万といわれる人々の食料が同時に供給されるためには、広大に整備された土地が必要であったというのです。

 我が家の歴史を思うとき、現在101歳になる祖父のことを思わずにはいられません。私は、彼の中にある自分はいったい何者なのだという激しい渇きを見るとき、私達の無力さと人生の非情さを思います。なぜ、先祖代々お寺の総代であった廣田家に、福音の種が蒔かれる事になり、キリスト教に改宗するきっかけとなった彼が、こんなに年をとっても自分自身から解放されめぐみの中を生きることが許されないのか? そしてその周りにいる人々を動揺させ、脅迫し関係を壊すような言動をし続けなくてはならないのか? この強烈な個性をもった祖父は祖母が亡くなってからもうすぐ30年ですが、精力的に生きてきました。いまだ使命感に燃え、日々歩んでいます。(私には心の悲鳴が聞こえるのだが、、、、) 私達周りの家族は、あと5年だろう、もしかしたら10年生きるかもしれないと言いながらここまで歩んできましたが、ついに100歳の大台を超え、さらにすこぶる快調です。
 カナン人は死なず、、、。私達が私達の信仰のために、神が与えてくださったこの偉大なるカナン人を心から感謝し、愛するようにと神が導いているということに、最近家族全体が気付き始めてきました。この戦いが私達の戦いではなく、万軍なる主が戦われ、解決されることであることでありこのことによって、祖父につながるすべての人が祝福を受けることに気付き始めました。

 イスラエルの民の信仰を純化し続けた異邦人(カナン人)が、ユダヤ人の中から生まれたイエス・キリストの十字架によって接ぎ木され、めぐみを相続していくことになる。このイエスに不可能なことはないと、これまでの導きを振り返りながら再確認しました。また、祖父によって先祖から引き継がれ、また父の信仰によって祝福されたこの地を、私が相続してゆくのなら、さらに聖別されたものとして捧げ、また用いられるようにし、次の世代へとこの助けと導きを伝えてゆくのがあとに続くものとしての役目なのだと考えさせられました。
by dynabooksx | 2007-05-29 12:05 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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