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十字架への道

十字架の道、十字架への道、それはイエス自身の人生、イエスの心、思いの向かう方向を指し示すもの。

キリスト教会は、それを自分たちの集団のアイデンティティーだとしてそれを掲げる。なぜそのようなことをするのだろうか。

なぜだと思いますか? クリスチャンの方ならば、どうしてなのか話してもらえますか? それは教会の建物がやっていること、教会を建てた誰かが置いただけで、自分には関係がないことでしょうか。

イエスがその身に負った犠牲、その罰と痛み。そのお陰で私たちは、癒され、自由を得、活き活きと生きる力を得ることとなった。クリスチャンならそう言うだろう。

きっとそのことに感謝し、大きな喜びを得たことがあっただろう。では今はどうだい?

人生に言いようもない空虚さを感じているのではないのかい。そんな筈はないと、何度も打ち消そうとしても、繰り返し繰り返し押し寄せる、孤独と暗闇、空しさの波。

クリスチャンになれば、もっと幸せな人生が来ると思った。充実した毎日を送ることができると思った。もう苦しみを味わうことがない、人を傷つけたり、自分が傷ついたりする必要がなくなると思った。

でも実際はそんなことはない。それどころかより旗色は悪くなるようにさえ見える。嘘だと思って、空想の世界、理想の世界に逃げ込んでみようとするが、それとは関係なしにひたひたと厳しい現実は迫り来る。

駆け込み寺のように日曜日の教会に逃げ込んでみる。そこは日常の苦悩を思い出さなくて住む空間。神の支配する聖(きよ)い空間で、存分にその空想の世界に浸れるかもしれない。

でも、それはその特異な空間、場所でしか通用しないもの、仲間内での暗黙の了解の中でだけ実現する楽しみ。だから彼らは集まってくるのかもしれない。

それでその時間が終わると、それまでの記憶は全て失くしたかのように別人になって世の中に出て行く。それは教会の中だけの秘められた楽しみであり、それを世の人に悟られてしまっては都合が悪いからだ。

そんな風当たりが苦しい人は、関わる人をその夢の中の人々だけで固めようとする。生活を出来るだけクリスチャンと呼ばれる人だけにする、関わりを限定するのだ。それでよりその世界に没頭していくようになるのだ。


でも実際のところどうだい? 苦しみは無くなったかい? 仲間ができて孤独は癒されたかい? 不安は解消したのかい?

人生はこれからまだまだ続く、たとえ肉体が滅んだとしても、それでも私達は消滅しないのだぞ。一時しのぎは通用しない。私達は本来、永遠に続く性質を持っているんだ。

きみがここまで歩いてきて、そしてこれから歩もうとしている道が、本当にキリストが望んでいる道なのかどうか、真剣に考えたことがあるかい?

それを求めて苦闘し、彼のたどった道を、あまりにも細くみすぼらしいその道を、怯えながらも一心に往きたいと、もがきながら歩んだことがあるのかい?

その道を見出す者は少ないと聖書はいうんだ。使われることがあまりにも少なくて、草はぼうぼう、まるで警戒区域、僕の故郷のようだろう。ポツリ、またポツリと、そこを行った人がいたらしいという噂を聞く程度だ。

なぜならその道の名は「十字架への道」。イエスがたどった、そのいのち、人生でもって切り拓いたその道自体なのだから、、、。彼に自分の代わりに犠牲を負わせることは望んでも、自分が重荷を負うことは望まない。自分が誰かのために犠牲となり、死んでいく人生など想像したくもない。だから、その道をあえて行こうとする者など、多いはずがないのだ。

救いはどこにある。問題の解決はどこにある。この混迷し行き詰まった時代において、誰もがそれを捜し求めている。誰もが必死に自分の身の安全、利益、保障を求めている中で、いったいだれがそれを指し示すのだろうか。

きみが自分をクリスチャンだと自称するのならば、神が貴方に期待していること、望んでいること、それが実現するためなら自分の命、人生を犠牲にしてもよいとまでした、その思いに敏感であってほしい。
by dynabooksx | 2012-11-01 05:35 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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