2011年 11月 07日
しばらく間が空きました。
どうにも良く知ったる所なのですが、あまり長居すると何か鋭く言いたくなるので、そろそろ引き上げようかと思っていると、なにやら外で激しい音が聞こえてくる。サンバ祭りのイベントをすぐ側でしているようだ。小雨の中ブラジリアン達が裸で踊っている。だんだんと雨は上がっていたのだが、他にもベトナム系や様々な人々が集まっていた。ここでは、日本人の方が少ない感じ。出店で、各国の料理を食べ歩いた。
そこで感じるところ。彼らは、表情を持っている。心と顔、動きというか、生きている躍動感がある。当たり前のことなのだが、多くの日本人に感じない何か、、。日本人も心と顔は確かに一致している。無理矢理作った笑顔など、気持ちが悪くて見ていられない。ぐっと感情を抑圧して、何もないように装っている。そういうことにしておくというのが、あまりにも多いのではないか。ダブルスタンダード。本音と建前。正反対の二つの基準があって当然だと思う。だからどっちにも逃げられるようにしておいて、結局どちらにも行かない。
このあり方が、聖書の世界観に馴染まない一番の理由だと思う。だから日本の教会で多く語られる日本人向けに料理されたキリスト教は、私に言わせるとキリスト教ではない。教会で語られる内容も、聖書とはかけ離れたダブルスタンダードどころかトリプル、いやそれ以上になってわけが分からなくなる。全体が一つに統一される真理などというのは、相対的でどっちにも転べる二重性を持った生き方を是とする日本人には馴染まない。本来は、馴染むのだけれども、あまりにも人々が偽りを現実として生き過ぎた。だから混沌としてしまって、何事に対しても、理解、判断、論理、言語が立たない。見るには見るが、悟らない。聞くには聞くが理解しない。感覚が麻痺していて、受けるべき、見出すべきことが、無反応で通り過ぎて行く。
聖霊が働かないのではない。働かせないのだ。私たちが死ねば、キリストは生きる。私たちが生きれば、キリストは死ぬ。聖霊が働かないのは、私たちが聖霊に働いては困ると考えているからだ。聖書の真理が読み出されてこないのは、私たちがそれを聞きたくないからだ。私たちが、十字架の道を行くことを是としないからだ。そういうところに、聖霊は働きをしたくても、拒絶されて通常は動きようがない。それだけのことだ。
『古き人が、キリストと共に十字架につけられた』ということを覚えたい。
あれ、こんなこと書くはずじゃなかったのに、、、
ローマ人への手紙
6:3それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 6:5もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 6:6わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 6:7それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 6:8もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 6:9キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 6:10なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 6:11このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
補足 6節の「古き人」と「罪の体」、11節の「罪」は対応関係にあり、そして「十字架につけられた」、「滅び」、「死んだ者となる」がそれに結ぶ句になる。
どちらも、それぞれの言葉の持つ意味で青に色をつけたが、青に青が重なる二重否定になるので、結果赤になるという話である。聖書にははっきりと書いてある。
6:7それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
死人は、死んでいる以上、罪の攻撃、誘惑に関しては無反応。これが罪からの解放の意。そして私たちの古い自分が死ぬことによって復活させられる新しい命。これがキリスト教の救いの本質である。
by dynabooksx
| 2011-11-07 01:37
| 真也の雑記帳