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個人的に知るということ

 人と会うということは、集中すればするほど身体的に疲れることもあるが、得られる刺激も大きい。人間相手がいて、はじめて自分の存在をよく分かるようになるというものだ。私は、人生に刺激を求めるタイプなので、自分に刺激を与えてくれそうな人物を探している節がある。要するに変わり者は変わり者を呼ぶ。類は友を呼ぶということだ。

 しばらく、信仰がらみのことばかりになっているが、原発関連のことは長文で長々書く気には中々ならず、ツイッターでコメントするのがやっとだ。気にならないわけではないのだが、一番関心があって、一番大切だと思う事柄について内容が集中してしまうのは致し方ない。


 キリスト教会に通ったことのある人は、次のような言葉を聞いたことが多分あるのではないかと思う。

『信仰は、神との個人的な関係が大切だ』と、、、、。

これで普通はうんうんとなんとなく頷いてしまうものだが、それってどういうことなの? と聞かれたらどのように答えるだろうか。当たり前のように用いられる文言だが、考えてしまうのではないかと思う。毎日聖書を読む、とか祈るとかのことだと教えられるのだろうか。


ある人物と個人的な関係があるということは、つまりその人を知っているということだ。知人であるということ、知り合いであるということだ。知ることの程度や付き合いの深さはあるだろうが、実際に会って相手の人格との具体的な接点があるということだ。

別な誰かの話していたその人の評価や言動を聞いたからといって、知り合いだとは言わないだろう。それは聞いたことがあるということだ。いくらそれらの間接情報を集めて、本人像を想像して立体化しようとしてみても、イメージは出来上がるかもしれないが、知り合いにはなれない。

だからたとえ小さな接点であったとしても、直接会うということがとても重要になる。そうであれば、その人についての他人の話を聞いたとしても印象はぐっと変わって来る。『ああ、あの人ならきっとそう言う事を言うだろうね。』とか『その場面はきっとこういうことを伝えたかったんだと思うよ』と自分の知っているその人との経験を基に受け取ることが出来るだろう。

つまりこうだ。神についてあかしをしている聖書に対しての読み方、読め方が違ってくるのだ。それまで、平面的な人生訓や道徳についての規範のようにしか映らなかったものが、急に真横で誰かがいて、互いに会話をするように人格が浮かび上がって見えてくる。知るということはそのようなものだ。

実際に知らない人のイメージは、いくら聞いても誰かの話で像が結ばないが、知っていれば生き生きと動き出す。この両者の違いはあまりにも大きいと思う。聖書には、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい。』とあるが、知らない相手では愛するということも出来ない。相手を大切にしようとしても、相手がどのような人物かが分からなくては喜ばせることもできない。

だから、生きているその方に出会って欲しいと思う。
by dynabooksx | 2011-10-01 00:47 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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