やっとテレビを見れるようになったぜ。

 本日やっとテレビが見れるようになりました。というのは、テレビを新しく買うのはお金がかかるし(というかもともとあまり見ない)電力を大きく消費するので、この際個別の家電としては持たない事にして、必要な時はパソコンとチューナーを接続して見る事にしたからだ。

オークションで頼んでいた品物が届いたが、これまでアナログだったので、パソコンの画面でもはるかに美しく見えるし、小さくしておいて作業をしながらちょい見することも出来て都合が良い。だが、はやくも飽きつつある。情報の密度が薄いというか受動的で時間の効率が悪く、倍速で流し見したくなる。こういうのをダラーって見続けて毎日を送っていたら、思考力を奪われてあっという間に人生など終わってしまうんだろうな、、、。

それよりもb-mobileのテザリングで確保している300kbpsの回線のスピードを何とかするのが問題だ。光を引いても良いが、いつまでここにいるかも分からない。wimaxも貸出機で試したが、リンクがぎりぎりで途中で途切れるので使い物にならない。ぐっと考え込んでしまった。脱獄も考えたが、今唯一のライフラインになっているIPHONEに何かあるのも困る。

なんていうんだろうな。テレビってのはどうも精神の集中をかき乱す。なんか意識を分散させて物事を考えにくくする信号かなんかが埋め込まれてるんじゃないのか?? 映像がついて紹介されると、さも説得力があるように錯覚するが、それこそ視覚による大量の情報で混乱させられているだけで、よく吟味をしないままいつの間にかなんとなく納得させられているのではないのか。でも、人間そういう方が楽でいいという人々もいる。テレビの見方は多数の考え方だと思っているから、まずそれに倣おうとする。こうしてまた、当たり前のことを当たり前に考えていく力を失っていく。テレビは我々が本来持つ、未来への想像力を奪ってしまう毒なのではないかとまで思うようになる。あれ? せっかく見られるようになったのに、なんでこんなに悪口ばかりいっているんだ??

原発事故でそれまでの生活基盤を失い、生まれ育った土地を強制的に離れなければならなくなったわけだが、よくよく考えてみると「では何を失った??」と問いかけてみても、特に無くして困るようなものを失ってはいない。むしろ身が軽くなったような気持ちさえする。生きるということは元からこういう単純なものではなかったのか。あれがなければならない、これがなければならないと、次々と購買意欲を掻き立てられる社会で、いつも不安を掻き立てられてきた。でも、その不安はどうやったら埋められるんだい? いつになったらなくすことが出来るんだい? こういう問いかけが本来必要なのだろう。

私の場合、神の言葉、私を内側から突き動かす力を発する命の言葉、聖書があれば不思議と心が落ち着き、何でもやれそうな気がしてくる。そして実際に次々と物事が実現していくことを体験する。必要はすべて用意されることを知っているからだ。だから、特にあれもこれもと事前に取り立てて用意する気にならない。必要なときにはいつの間にか行動しているし、不必要なものは取られ、必要な時は不思議な手段で調達される。こんなことをこれまで幾度となく経験してきた。だから神の義(神が義しいと思うこと)を第一に求めたい。それさえあれば、一見どんなに困難に見える事柄でも、はるか高い所から見ておられる方が、その奥深い計画により、いつかその義しさがはっきりと現れるときまで、責任をもって導いてくださるからだ。

神が私たちと共におられる。ヘブル語でこの意味を表す言葉をインマヌエルという。イエスは後にインマヌエルと呼ばれるだろうと預言されていた。人間にとってこのインマヌエル以上に幸福なことはない。そこではあらゆる必要が満たされ、どんな不安もない。天の国がその人のまわりを取り囲んでいるからだ。

テレビの話からなぜこんなことになるのか、まったく分からない、、、。 


マタイによる福音書 / 1章 23節
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
[PR]
by dynabooksx | 2011-05-08 23:19 | 真也の雑記帳

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30