落着いてみると、、、

結局昨日も一昨日も、2時間ぐらいしか寝ていないので、睡眠不足になっている。でも動くときは意識が砥がれるので疲れは感じない。福島でも最初は自分たちの足場を作ることと、その次に支援をすることを考えて、そのつど必要なものが与えられていくことは分かってはいても、徐々に消耗していっていたようだ。

ここに来て、自分たちで生活の場を確保しなくてもよい環境になったら、急に力が抜けてきた。でも、ヘリコプターの音に過剰反応しているようで、聞こえてくると反射的に起きてしまう。大宮には自衛隊の駐屯地があるんだな。ニュースではかなりひどいことになっているようだが、きっと収束出来ると信じている。

代々先祖からの土地を離れるというのは、どのようなことであろうか。私は跡取りとはいっても、長男ではないし、もともと親の価値観を引き継いでいるわけではない。あらゆることを恵みとして受け取っているので、場所が変わろうが、条件が変わろうが、それは変わらない。喜んで受け取るのみだ。思い違いがあれば、訂正させられるが、日々のことなので慣れきっている。
それに対して、自分で必死に努力し、勝ち取ってきた人生というのは、それを失った時の痛みは大変大きいものだろう。そこまでの努力が全て水泡に帰す。命が助かったといっても、これから何をまた勝ち得て行くというのか。その労苦を思うと身動きが取れなくなる。
ここで生き方の方向性がはっきりとされる。今までどおり、力を入れて自らを駆り立てて自己実現をしていく道を選ぶのか、与えられるものを感謝して、それに足ることを学んで生きていくのか考えさせられるだろう。今回のことこそがその根本が変わるチャンスだと思っている。

今回の避難劇で、自分たちの命を捨てる思いで、最後まで給油を続けたわが町のガソリンスタンドの姿を見て、この悲惨な出来事の背後にあるものを感じていた。人が自分以上に相手を思う気持ち。この緊急事態においてそれが一気に開花した。彼らともう一度新しい町を復興できると信じる。
生きるとは何なのか、死ぬとはなんなのか。考えさせらずにはおれない。そんなこと考えても答えはない。そうだろうか。確かに自分の中には答えはないかもしれない。だから、自分なりの答えをみんな用意していきていて、時々その喪失を味わう。ただ、失うことがみな不幸かというとそうではない。ただ周りから見ているだけの人はそのように思うだろうが、実際にそれを大変した人にとって、それは真実だ。失うことによってしか得ることの出来ないものがある。今回の出来事はそれを多くの人々の魂に刻み込んだ。それは、失わされた者だけの恵みだ。そう、「恵み」とはそもそもそういうものなのだ。


「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
マタイによる福音書10章34~39

イエスを信じるということは、敵対し戦う道を進むことになる。それは血肉ではないが、その強力な力を持つ敵は、命を失うということを通してでなくては対抗することすら出来ない。十字架以外に手段がないのだ。大きな犠牲によって生まれたもの、私たち生き残りはそのことを伝えるために残されたのだろう。

今日はもう、寝よう、、、。
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by dynabooksx | 2011-03-15 22:14 | 真也の雑記帳

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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