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謙遜とは

謙遜は敬虔さの証拠

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名のみに帰してください。 詩編115:1

 ある人がオプティナの敬虔なマカーリイに、その霊的な助言が大変有益だったと礼状を書いた。するとマカーリイは「そんなはずはありません。間違いだけが私のものです。良いアドバイスはみな神の御霊のアドバイスで、そのアドバイスはたまたま私が正しく聞いて、ゆがめることなく伝えたものです」という返事を書いた。
 ここに見逃してはならない優れたレッスンがある。それは神の人のさわやかな謙遜である。
「間違いだけが私のものです」
 この人は自分自身の努力は間違いにしかならないこと、そしてそのアドバイスから何か良いことが生じるなら、それは内に活動していおられる聖霊の働きに違いないことを完全に確信していたのである。
 これは、誇り高い人でも時に感じることのある突然の自己軽視の衝動ではなかった。それはむしろこの人の不変の確信であり、その全生活を方向づけていた確信であった。

 謙遜の霊は、敬虔さを示す決定的証拠である。それは宗教の本質とかかわる。ここで、新しい性質が姿を顕著に現してくる。謙遜な霊は、子どものような、そしてキリストのような気性であって、もっぱら神の力が心に働かれた結果である。


+++++引用終わり+++++


世のキリスト教会には、「あのひとは謙遜だ」と呼ばれる人がいる。そういう人は、自分の事を「取るに足らない、つたない人間だ」とか「愛のない者だ」とか表現したりする。それが、本心から出ているかどうかを確かめるなら、それに心からの同意を示してみるといい。「本当におっしゃる通りですね。」と、、、、。
それで、強烈な反撃をくらうか、その後しばらく口を聞いてもらえなくなるか分からないが、本心から出た言葉であったかどうかは分かるだろう。

世の謙遜は、自らを人に高く評価してもらおうとするがゆえに、低く下ったふりをするものであるが、真の謙遜は、神への敬虔さからくる確信に基づく。その謙遜の本質は、世人に評価できるものではない。謙遜は、時に尊大で傲慢に映ることもあろう。それは、彼らが神の存在を前提に置いてはおらず、その人の内に働く聖霊の働きを見出すことが出来ないからだ。
神の人とはそのようなものなのだ。ある人はその人を、大変謙遜な人だと評価し、またある人は傲慢極まりない失礼なやつだと評する。だから、イエスは、熱狂的な支持を受けながら、また十字架につけられた。対極的な二方面である。神の力と権威を持ちながら、人の奴隷となりその罪を負う。「世人」と「神を待ち望む人」は、この「神の権威」と「十字架」に関して、正反対の評価を下す。説明がいるだろうか?

世人は、普段権威と秩序を呼びかけていても、いざ自分のそれが脅かされるかもしれない、神の権威がやってくると怒りだし、それを拒絶する。神を待ち望む人は、すでに希望がなく、踏みにじられた状態なので、それが来るのを心待ちにしており、喜びをもって歓迎する。
世人は、その怒りをもって権威を冒涜する「神の人」を抹殺し、十字架につけようとする。神を待ち望む人は、イエスのそれを支え、共に背負おう、つまり自分が十字架の道を歩もうとする。ここで注目したいのは、世人もそれは「神のためだ」と言って、自らの正義を行うところである。そのこともあらかじめイエスは予告されていた。


説明がちょっとしつこすぎたと思う。親切でしつこすぎると、本人の楽しみを奪い、大味で不味くなるのがおちである。反省反省。


追記 自らを取るに足らないとか、愛がないとか表現する教会人は結局のところ、自分はクリスチャンではないと言いたいのではなかろうか。長く教会に通う人にそのような傾向が見られるように思うのだが、そんな分かりきったことを今さら述べ立ててなんの意味があるのだろうか。私に言わせるとその告白は、「私とキリストとは何の関係もございません」とか「神と私は、なんらのパイプも持っていません」という内容のものだ。だから、長期間教会に通いながらも、このような表現が出てくるのだろう。つまり、私はキリスト者ではありません!! と、、、。こういう告白を聞いても胸が痛まず、うんうんと頷いている周りの輩も同類だろう。

キリスト者というもの、これほどにまで私一人を大切だというのか、そこまでして私を必要だとおっしゃる主の御声を聞き、またそのための犠牲を知り、湧き上がってくる思いに突き動かされるようでありたい。一人に対するその執着、恐るべきである。私もとうとうそれに降参してしまったわけだが、その恐るべき魂の救いに対するこだわりが、今度は私を内側から突き動かすのである。クリスチャンとはそのようなものであろう。
by dynabooksx | 2011-03-06 07:13

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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