2011年 03月 01日
生きるために死ぬ
生きるために死ぬ
あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、、、、、 ローマ6:16
神は、私たちに対してどんなに善意を持っておられても、私たちが自分の願いを全部一つにまとめるまで、私たちの心の願いを聞き届けることがおできにならない。
私たちが肉欲的な野心に対処したとき、肉のライオンと毒蛇を踏みつけたとき、自己愛の竜を足の下に踏みつけたとき、そして罪に対して真に死んだと見なしたとき、そのとき、そのときにのみ、神は私たちを新しい命に引き上げ、聖霊をもって満たすことが可能となる。
個人的リバイバルや、勝利の生活についての教理を学ぶのは簡単かもしれない。しかし、自分の十字架を背負って、自己否定の暗く苦しい丘に向かってとぼとぼと歩いていくのは、それとは全く別のことである。そこに招待される者は多いが、選ばれる者は少ないという御言葉があるのである。
自己否定ということは、個人的苦痛や苦行を科することではない。自己否定とは自分のために生活するという原則を断念することである。私たちの存在と意思の方向を変え、もはや、自分にどのような影響があるかを基準に行動するのではなく、神と他の人々にどのような影響を及ぼすかという一事に思いを寄せるようにさせるものである。
~A.W.トウザー聖書日課より 1月17日~
+++++引用終わり+++++
冒頭の聖書箇所の続き、、、気になりませんか? 自分で調べるのが一番良いのですが、これです。
死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
どちらも主人に対して奴隷、僕なのですが、二種類の姿が書かれています。人間は、自覚していようとしてなかろうと霊的な存在であり、また主人(何か他に頼れる存在)を必要とするようにデザインされていますので、誰もがそれを持っています。唯物主義だという人がいるかもしれませんが、その人が大切に信頼するその物の背後にある霊的存在に気がついていないだけです。その存在は、ほとんど奴隷のようにその人を支配し、使役します。そのまま行けば、人生の終わり行くにつれて絶望と滅びを見ることが明らかになって行くでしょう。
後半のもう一つは、「義」という生き方です。これは神から人を見ての表現ですので、創造主を主人としていく生き方です。結局はこの二種類の生き方しかない。ですから、俺は誰の指図も受けないと言ってはみても、誰もが僕として、奴隷の生活を送っているわけです。ですから、地上の人生はどこか重く苦しいのですね。
中間というのもありそうですが、実際これが一番苦しいのです。神を聞いて知っていながらそこに従いきれない。その苦しみはあまりにも大きい。なぜならこの両方は真逆の方向性を持っていて、間に立つとすれば身を引きちぎられる痛みを経験するからです。しかも、神の求める従順は100%なので、ここまでは従うけどもこれは勘弁してくれというのが許されない。だから実際の所、中間地点はないのです。
それにしてもトウザーさん、見事な表現です。「自分の願いを一つにまとめる」確かにそうです。これも聖霊の働きだとも言えますが、自分がいったい何をしようとしているのか、何を願っているのかを整理して、その中の自己矛盾を知り、救いようがないそれに絶望する。それが、自分の願いを一つにまとめるでしょう。そこまでたどりつかなければ、聖霊は無理矢理にその人を満たすということが出来ない。というか、出来るのでしょうけれども、しない契約なのですね。信仰による義の約束ですから、、、。
自己否定とは自分のために生活するという原則を断念すること。名言です。これは、イエスの生涯全てがそうであり、十字架の姿ではっきりと示されています。だから、私(十字架)を通らなくては、だれも父のところに行くことは出来ないと語ったのです。自分のために生活するという虚しさと、破壊的なその結末に見切りをつける。その洞察力が重要になると思いますが、それがなければ、結局の所徹底的にやり尽くすしかありません。むろんダメージも大きいでしょうけれども、痛い思いをするのが嫌で中途半端な所で、分かったつもり、フリをするならば必ず後ろ髪を引かれ、うわべだけ神に従った事にしておくという二重性を持った、さらに救いがたい状態になって行くでしょう。
だから、私は勧める。(パウロっぽいな、、、) 出来るだけ短期間で力を出し尽くせ。だらだら生き延びようとするな!! どうせ滅びるんだったら、徹底的に試してみろ。それでも神はあなたを救うことが出来なければ、その時はもう諦めるしかない。でも諦めた瞬間、救いを体験するでしょう。
あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、、、、、 ローマ6:16
神は、私たちに対してどんなに善意を持っておられても、私たちが自分の願いを全部一つにまとめるまで、私たちの心の願いを聞き届けることがおできにならない。
私たちが肉欲的な野心に対処したとき、肉のライオンと毒蛇を踏みつけたとき、自己愛の竜を足の下に踏みつけたとき、そして罪に対して真に死んだと見なしたとき、そのとき、そのときにのみ、神は私たちを新しい命に引き上げ、聖霊をもって満たすことが可能となる。
個人的リバイバルや、勝利の生活についての教理を学ぶのは簡単かもしれない。しかし、自分の十字架を背負って、自己否定の暗く苦しい丘に向かってとぼとぼと歩いていくのは、それとは全く別のことである。そこに招待される者は多いが、選ばれる者は少ないという御言葉があるのである。
自己否定ということは、個人的苦痛や苦行を科することではない。自己否定とは自分のために生活するという原則を断念することである。私たちの存在と意思の方向を変え、もはや、自分にどのような影響があるかを基準に行動するのではなく、神と他の人々にどのような影響を及ぼすかという一事に思いを寄せるようにさせるものである。
~A.W.トウザー聖書日課より 1月17日~
+++++引用終わり+++++
冒頭の聖書箇所の続き、、、気になりませんか? 自分で調べるのが一番良いのですが、これです。
死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
どちらも主人に対して奴隷、僕なのですが、二種類の姿が書かれています。人間は、自覚していようとしてなかろうと霊的な存在であり、また主人(何か他に頼れる存在)を必要とするようにデザインされていますので、誰もがそれを持っています。唯物主義だという人がいるかもしれませんが、その人が大切に信頼するその物の背後にある霊的存在に気がついていないだけです。その存在は、ほとんど奴隷のようにその人を支配し、使役します。そのまま行けば、人生の終わり行くにつれて絶望と滅びを見ることが明らかになって行くでしょう。
後半のもう一つは、「義」という生き方です。これは神から人を見ての表現ですので、創造主を主人としていく生き方です。結局はこの二種類の生き方しかない。ですから、俺は誰の指図も受けないと言ってはみても、誰もが僕として、奴隷の生活を送っているわけです。ですから、地上の人生はどこか重く苦しいのですね。
中間というのもありそうですが、実際これが一番苦しいのです。神を聞いて知っていながらそこに従いきれない。その苦しみはあまりにも大きい。なぜならこの両方は真逆の方向性を持っていて、間に立つとすれば身を引きちぎられる痛みを経験するからです。しかも、神の求める従順は100%なので、ここまでは従うけどもこれは勘弁してくれというのが許されない。だから実際の所、中間地点はないのです。
それにしてもトウザーさん、見事な表現です。「自分の願いを一つにまとめる」確かにそうです。これも聖霊の働きだとも言えますが、自分がいったい何をしようとしているのか、何を願っているのかを整理して、その中の自己矛盾を知り、救いようがないそれに絶望する。それが、自分の願いを一つにまとめるでしょう。そこまでたどりつかなければ、聖霊は無理矢理にその人を満たすということが出来ない。というか、出来るのでしょうけれども、しない契約なのですね。信仰による義の約束ですから、、、。
自己否定とは自分のために生活するという原則を断念すること。名言です。これは、イエスの生涯全てがそうであり、十字架の姿ではっきりと示されています。だから、私(十字架)を通らなくては、だれも父のところに行くことは出来ないと語ったのです。自分のために生活するという虚しさと、破壊的なその結末に見切りをつける。その洞察力が重要になると思いますが、それがなければ、結局の所徹底的にやり尽くすしかありません。むろんダメージも大きいでしょうけれども、痛い思いをするのが嫌で中途半端な所で、分かったつもり、フリをするならば必ず後ろ髪を引かれ、うわべだけ神に従った事にしておくという二重性を持った、さらに救いがたい状態になって行くでしょう。
だから、私は勧める。(パウロっぽいな、、、) 出来るだけ短期間で力を出し尽くせ。だらだら生き延びようとするな!! どうせ滅びるんだったら、徹底的に試してみろ。それでも神はあなたを救うことが出来なければ、その時はもう諦めるしかない。でも諦めた瞬間、救いを体験するでしょう。
by dynabooksx
| 2011-03-01 06:38