預言の賜物について
今回のネタはこれ

預言の賜物はどのように働くか リック・ジョイナー2011年2月21日


預言、神の言葉を預かるということについてです。今から6年ほど前になりますが、私の召しがこれでした。主は『私の言葉をそのまま語れ』という呼びかけをされました。この語りかけの中の『そのまま』という所がミソで、差引きを許さないという厳しいもので、確かに言われたとおりにするのは簡単だといえば簡単なのですが、それまでの経験上それをすれば、自分の身が社会的な意味でもかなりまずいことになるのはすぐに分かります。またその召しは、完全服従を意味するものでもありましたので、とてもそんな事には付き合えないと、逃げられないと分かっていながらも聞かなかったことにして聖書を読むことも止め、また新たな呼びかけを受けそうな場所をできるだけ避けて過ごしていました。

これは何も特別な人が受けるものだとは思っていません。程度の差こそあれ全てのクリスチャンが与えられているものでしょう。そうでなくては、キリストの声を聞くことなくては、イエスを主だと信じることがどうやって出来るのだろうかと疑問です。ですから、キリストを知る者であれば、預言ということについて違和感は覚えないはずです。ただこの事について、卓越した能力を持っている人がいることも事実です。この人々は、多くの場合卓越しているがゆえに周りからは理解不能な言動をします。それが理解されるのはいつも、時間が経って物事が明らかになってきてからです。その人は、この世界を全て支配している主の思いをすぐ近くで聞いているので、人々に明らかになる数段前にそれに気がつくことが出来るのです。


預言、異言については第一コリントでしょう。抜き出します。

コリントの信徒への手紙一 / 12章 10節
ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。

コリントの信徒への手紙一 / 12章 28節
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

コリントの信徒への手紙一 / 13章 2節
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

コリントの信徒への手紙一 / 13章 8節
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう

コリントの信徒への手紙一 / 14章 1節
愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 3節
しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 4節
異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 5節
あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 6節
だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 22節
このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 24節
反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、

コリントの信徒への手紙一 / 14章 29節
預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 31節
皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 32節
預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 37節
自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。

コリントの信徒への手紙一 / 14章 39節
わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。


きっと、コリントの教会には多種の賜物を持つ個性的なキャラクターが多かったのでしょう。しかし、それ故に混乱も多かったことが想像される。まず、この預言の賜物を持つ者の特徴として、『神に聞くということにおいて、圧倒的な集中力を持つ』ということがあるでしょう。この事について、目が覚めている間、一日中でも続けているような欲求、喜びを持つ。

先日、ある人に『あなたはなぜ、それほどに聖書の深い理解ができるのですか?』と聞かれましたが、それはいろいろな本を読んで、いろいろな人の話を聞いてこうなっているわけではない。それは祈りによるものです。聖霊が私の魂と一緒になって礼拝するとき、聖書の言葉と同じものが私の口から出てきます。こうなると、すでにそれは解釈とかそういう次元では無くなってくるのです。真理は真理ですから、私の心にあることと、聖書に書かれていることが一致していることを確認する。こういう流れです。その上で、私の知性や言語能力を使って出来るだけ他の人に分かり易いように、あ~だ、こ~だ、試行錯誤する。これは私の役目で、普段からその技術を磨いておく必要があります。言語化する能力ですね。

ただ、必ずしも言葉として整理して発しなくても、聖霊の臨在というそれで包むだけで人の心を瞬時に変化させてしまうということもあるようです。ここが凄い部分ですね。これがあるからこそ、実際に発せられる私の言葉を受容してもらえるわけです。

結局の所、どれぐらい私自身を聖別して、神に聞くこと、祈りに打ち込んでいるかどうかにかかっています。ここに気がつくまであまりにも時間がかかり過ぎました。


コリントの信徒への手紙一 / 12章 28節
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。


を見てみると、どうもパウロは重要度というか、出現順位というか優先順位をこのように考えていたようですね。まず使徒というのは、キリストの復活の証人ですね。復活したキリストに実際に会った人々です。私が異常なことを話していると思うかもしれませんが、私たちキリスト者は現代においても彼に会うことが出来ます。確かにそれは、弟子達が墓場であったような出会い方ではない。しかし、確かに実在する人格としてその方に実際に触れることが出来る。私は、去年の12月19日早朝、その方に抱きかかえられて貴い血を注がれました。それで、それまで考えていた信仰のあり方が逆転して、こんなことになっちゃったというわけです。

次に預言者、これは今やってきました。当然彼を知っていったん関係を持てば、その魅力に虜になりますから、もっと知りたい、聞きたい、親密になりたいと思う。そうすれば、大事な友達に向こうから呼びかけをしてくるのは当然な話です。

次は教師、これは私が思うに、一般的に言われている『牧師』というのがこれに一番近いのではないでしょうか。神学校や何かで、聖書についての知識を色々と勉強してくる。それを持ち帰って他の人に伝える。ただ、聖書というものは信仰と切り離しては、何もその本質が分かるように出来てはいないのですね。だけれども、それなしにでも、聖書が分かったつもりになって教えることが出来る。そう言う人は、信仰も教育によって教えることが出来ると考えているのでしょう。これは信仰に対する誤解です。信仰は私たちが作り上げるもののように考えているかもしれませんが、神からの賜物です。これに気がつかない人は、まだ聖書の言う信仰を知りません。ですから、信仰を持たない牧師、教師があまりにも多いように思います。これがキリスト教会に対する大きな混乱を生んでいるのです。神に従うことを良しとしない人物が教会の指導者の立場になっている。これは致命的でしょう。それは、すでに教会とは呼べないしろものでしょう。

そこからは、並列ですかね。奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者など、、。
奇蹟を行う者、私は信仰者というもの自体が奇蹟だと思いますが、そういう信仰者は他の人ではなし得ないことをします。それは、他の人と明らかに心の向かう方向が違うからです。解決不能のように見える問題をいともあっさり解決して見せます。神にすることの出来ないことはないことを知っているからです。また、世のものとは違う神の勝利の仕方というものを良く理解しているからです。神の勝ち方というのは、放棄すること、犠牲を払うことによって相手のために死ぬこと、敗北することの勝利です。十字架の力です。
この奇蹟の中に多くの人の病気、特に精神的な病をいやす力が含まれるでしょう。精神的な病の多くは、サタンが私たちの欲望を刺激し、それに服従させることによって死に引き込んでいくものです。十字架の血潮はそれを瞬時に癒すことが出来るでしょう。私は自分の体験からそれを知っています。
次に援助する者、与えるという賜物を持つ人の事でしょう。これも大きな賜物ですね。神から溢れるほどの恵みを受けていて外に流さずにはおれない人。その喜びのゆえにじっとしてはおれないのですね。
管理する者、これも牧師の役目に近いでしょうか。羊を適切に監督、管理する。仕える者でなくては実現不能な業務です。
最後、疲れて来ましたが異言を語る者。異言というのも、聖霊からのもの、悪霊からのもの、精神病患者のものと多種あるようですが、まだそういう人に出会ったことはありませんし、私もそういう気配がありません。すでにお前は十分だろうと言っているのでしょうか。


ふう、長くなった。風邪が治らないのでもう寝よう。
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by dynabooksx | 2011-02-21 20:12 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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