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イエス・キリストと共に働きたいあなたへ

 御霊の呼びかけ

一つの体には、多くの肢体があって、そしてすべての肢体が同じ機能を持っていないように、わたしたちも数は多いのですが、キリストの中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです。
        新約聖書(回復訳)ローマの信徒への手紙 12章4・5節


真の伝道者になる方法は一つしかないが、残念なことに説教壇に行く道は多くある。

その一つは、いわゆる「説教壇でのかっこよさ」と言われるものが備えられていることである。堂々とした風采と朗々たる声が、生来の指導者のしるしであるとされ、多くの背の高いアブシャロムたちが、実際には神によって遣わされていないにもかかわらず、神に代わって話そうとしている。その人たちの召命は御霊からではなく人々から与えられている。その結果は悲惨なものにならざるを得ない。

人類のための、純粋ではあるが全く人間的愛から牧師になる人たちがいる。その人たちは社会的義務を強く感じ、牧師の職につくことによってその義務を最も良く履行できると考えている。
伝道者になるための間違った理由が種々ある中で、これは最善であるように見える。しかし、霊的に正当な理由にはならない。なぜなら、みこころのままに人々を召される聖霊の主権を見落としているからである。

神が治めるのではなく人が管理する教会(団体、組織)は失敗をすることになる。大学の訓練を受けていても、御霊に満たされていない献身者の働きは、奇蹟をもたらすことがない。私たちが聖霊の明らかな臨在と力に戻らない限り、ものごとは少しもよくならない。 By トゥザー


~これから、牧師、士官、その他献身者と言われる職業に就きたいと考えているあなたへ、就いているあなたへ~
神のために働く思いと熱意があるだけでは、十分ではない。
その働き自体が神のものでなければならない。
これはキリスト者が召されている死の中でも最も厳しい死である。
本当に私たちの働きは、まずカルバリの血に浸され、十字架刑のしるしを帯びていなければ、
神には受け入れられず、私たち自身も他の人々にも役に立たない。
それは私たちの働きであることをやめ、その結果、神の働き、神だけの働きにならなければならない。 By トゥザー

イエスは彼らに言われた、「父がご自分の権威によって定められた時や時期について、あなたがたは知らなくてもよい。しかし聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムにおいても、ユダヤ全土とサマリヤにおいても、また地の果てまでも、私の証し人となるであろう。 新約聖書’回復訳) 信徒行伝1章7・8節

 行いに愛をこめるということを、理解することが
神の愛の共労者として、とても重要なことだと思っています。
共労者とは、名前だけではありません。共労者は、属しているだけのものではありません。
愛の運び手であり、その愛を分かち合う人はだれでも行いの共労者です。
ですから、ここで共労者のわかりやすい定義をしたいと思います。
共労者とは、神のために行いに愛を込め、貧しい人に奉仕する人です。
ではどこで?まず家庭において、それから他の人々に対して。
家庭をないがしろにしてはなりません。
外へ向かうよりも前にまず私たち自身から始めて、
そして家の中で行うのです。
このような練習のおかげで、
他の人たちにも愛を込めることができるようになります。  マザーテレサ

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 ぶよぶよした水浮腫のように醜く大きく見えるモンスターツリーの養分は、汚れたこの世の人間の罪、欲、見栄、名誉、金。それらの養分を吸い続けているので、まだまだ大きくなりつづけ、もはや腐り、崩れ飛び散るばかりになっています。
この巨大なモンスターツリーは悪魔の力で成長させられたもっとも醜く異臭を放っている木です。
悪魔のモンスターツリーに接ぎ木されているので、多くの教会、救世軍は、人格を持って活き活きとした愛、喜び、平和、寛容、善意、誠実、柔和、自制という実を結ばせてくださる聖霊様を見たくなくなっています。
命に結ばれることを堅くかたく拒否し続けています。

イエス・キリストに接ぎ木されていますか?
聖霊様をへりくだって、自分の中にお迎えしていますか?
イエス様の御霊の働きを感じますか?

職業ではなく、これは、殉教だということを知りましょう。
もう一度静かに神様に祈りの中で、沈黙の中でみこころを聞きましょう。
誰があなたを献身者に招いたのですか?
聖霊様に従わずに、刃向かってきてしまったのではないですか?
あなたの罪、欲、病は、十字架の血によって洗われていますか?
神様から声を本当にかけられているのなら、その働きのために私も、全身全霊を持ってあなたのために祈ります。


夫、真也より 連日仕事でちょっと疲れて帰ってきました。ふとブログを見てみるとなんと、、、。似ている書き口ですが、これは私の文章ではありません。よほど思うところがあったのでしょうが、書かれていることは事実です。なぜ彼女がここまでのものを書くのか。それは、その人の命に関わる問題だからです。罪が処理されて、明確な召命がないままに、周りの要求と自分の欲に引かれてその道に進むとすれば、あなたにとっても、関わる人にとっても取り返しのつかないことになります。周りがみんなそうだからと、安心していてもその鋭い裁きを回避できるものではない。実際の宣教現場に行けば分かることです。彼女が言うように、今あなたがいるその場所で、十分に神の栄光を表すことが出来るように求め訓練してから考えるべきです。人の上に立てば、それ相応の責任を負うことになります。もし、あなたに続く人々を誤った方向に導けば、あとでそれに気がついても、悔い改めることは大変難しくなります。よく分からない。他に行く所がないからとてやれるほど甘い世界ではありません。自分の命を救おうとする者は、それを失います。職業としてやれるかどうか、そんなうわべのことを言っているのではない。職業牧師、伝道師、教師など腐るほどいるではないか。神の僕として自分の生き方、人生、命を投げ出す覚悟があるのか。信仰とはそのようなものであり、それこそがキリスト教の「救いと解放、自由」だということを、イエスの犠牲、血によって知らなければ、あなたの身の回りの人はおろか、自分すら守りきることは出来ない。だから、あなたの内なる良心は叫びを上げているでしょう。それをいつまでも押さえ込んでおくことは大変危険なのです。
 私は、はっきりと言います。聖霊によって血で覆われることなく、新生していないならば、神への捧げものではなく、サタンへの生贄になります。対処が遅れれば、文字通り命を失います。敵が見えていなければ、戦いにすらならないのです。まだ私の声が届いているならば、立ち止まるべきだ。神を侮るなというのはそういう意味です。
by dynabooksx | 2011-02-17 10:12

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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