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罪びとの頭

まだまだ寒い日が続いている。いてもたってもいられなくなって、目が覚めてすぐに布団から飛び出すこともあるが、IPHONEを使うと、部屋を暗く保ったままでも、回りを起こさないで静かに聖書を読むことが出来ることが、分かったので、何かにカチンと当たって起きずにはいられなくなるまで、進みつ戻りつ読んでいる。今朝は第一テモテにさしかかった。それで、また飛び起きて来たというわけである。

キリスト・イエスは、罪人救うためこの世きて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。1テモテ1:15


「罪びとの頭」これは、牧師が好んで使いたくなる語句で、教会では比較的用いられるところではないかと思う。口語訳ではこの表現であり、共同訳では「罪びとの中で最たる者」、フランシスコ会訳では「罪びとの中の罪びと」とある。

この言葉を聞いてどのようなイメージを持たれるだろうか。これまでここを題材にしたメッセージを聞いた事があっただろうか。この手紙を書いたのはパウロだ。信仰における真の子テモテへと書き送った手紙の冒頭である。

とっかかりをどこから入るかちょっと考えてしまうのだが、まずキリスト教会の中で「罪」という言葉がよく用いられる。だいたいにして当たり前のように用いられるこの語が、その人にとっては最も違和感のある語句だろう。だから、それを思って時には引っ込めてみたり、また急に飛び出してみたりする。そして、この場所だ。

「パウロのような大伝道者が自らを罪びとだと、罪びとの頭だと言っている。これはどうだ。新約聖書の大半を占める著者の彼が、自らを罪びとの頭と言っているのだから、あなた方もまた私も罪びとなのだ」と教会に長く通ったことのある人なら、一度や二度は説教されたことがあるのではないか。

これは、それを語る人の贖罪観をそのまま示している。いったいそれのどこに問題があるのだい? と私に逆に質問したいかもしれない。こういうことになってしまうのは、何故だろう。単純な日本語能力の問題か、それとも聖書、聖書と口先では持ち上げていても、実際にそれを自分に適用しようとは思わずに、自分の都合の良いように切り貼りして便利に使っているからなのか考えさせられる。パウロが何を言いたかったのか、、、。そんなことは、前後を読めば分かることではないか。「罪びとの頭」は口語訳の語句なので、そのまま口語訳を使う。


1:12わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。 1:13わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき無知なためしたのだから、あわれみをこうむったのである。 1:14その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。 1:15「キリスト・イエスは、罪人救うためこの世きて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。 1:16しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。


これを提示すればそれで済むような気がするのだがどうだろう。文章と言うのは、色々な読み方が出来るが、書き手が何を言わんとしているかを掴んで初めて読んだと言えるのだ。よく、最初から最後まで読んでもらいたいものだ。この箇所の直前には、律法についての正しい用い方が述べられている。つまり、律法は、神から離れるというエラーに気づきを与えるためだけにあると、、、。かつて、律法を遵守することこそが神に従う道だと思ってひた走ってきたパウロが、今はこのように考えるに至ったということを念頭に入れて続くこの箇所なのだ。

律法による義を求めて、どこまで求めても満足出来なかった、よく分からなかったパウロは、その自分を評して「信仰がなかった」、「無知であった」と言う。だから「神をそしる者、迫害する者、不遜な者」だったのだと、、。それで、どん詰まりになっていた私に、キリストはあわれみを示し、姿を現して下さったのだと、、、。そういう罪びとであった私を救うために、キリストはこの世に来てくださった。十字架の姿で明確にそれを示し、復活によって解決して下さった。私はその罪びとの頭だと、、、。

これで分かりますよね。さらに彼は続ける。神の民であるキリスト者達を迫害し、殺すことに熱中していたような罪びとの頭であった私があわれみを受けて救われたのは、私のような者でも救われるのだという「永遠のいのちを受ける者の模範となるため」であったのだと、、。つまり、どんなに罪が根深いように見えても、神に出来ないことはないのだというモデルですね。というわけです。

説明がくどいですかね。時間が来たので終わります。


追記 何がテーマだったのか全く分からないという方の為にいちおう、、、。パウロが自らを、罪びとの頭と言っているのは、救われた後のことを言っているのではありません。もし、キリストに出会った後でも、未だ罪に縛られていると彼が感じていたとするならば、キリストがこの世に来てくださったということに、何の意味が
あるのでしょうか? ですから、未だ自分は罪から来る欲求をに振り回されている、または押さえ込むので精一杯だという正直な皆さん。そうだとすれば、二つのアプローチで迫ってみるべきです。まず、自分はキリストを知っていると思ってはいるが、本当に出会ったのだろうかという追求が一つ。もう一つは、私が出会って従がっていると思う神は、私を本当に救う事が出来るのだろうかという事をとことん追い求める。この徹底的な追及をしないであきらめるのはまだ早い。自分の真の姿が暴かれるのが嫌で、つかず離れずで足踏みしているのではないのか。未だ罪に縛られているのならば、放っておいても滅びるのだから、ここで一発めいっぱいもがいてみたら良いのではないか。パウロのような者でも救われるのだから、あなたで無理なはずはない。あきらめるのは、それからでいい。


求めよ、さらば與へられん。
尋ねよ、さらば見出さん。
門を叩け、さらば開かれん。
すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。
マタイ7章
by dynabooksx | 2011-02-14 06:33 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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