2011年 02月 12日
「携挙」(空中再臨)、患難時代は必ずやって来る!万が一携挙にもれて地上に取り残された場合の心得
タイトルをそのまま頂いちゃいました。出典は、こちらです。
長野県の単立キリスト教会 マラナサ・グレイス・フェローシップ(MGF)の型破り牧仕のキリストバカ一代
「携挙」(空中再臨)、患難時代は必ずやって来る!万が一携挙にもれて地上に取り残された場合の心得
最初、この『携挙後のサバイバルガイド』(PDF)http://www.raptureready.com/translation/japanese/survival-guide.pdfが面白くて、思わず目を留めたのでした。
中身については、本文をよく眺めてもらえば分かるでしょうし、聖書を持っている人は、新約聖書全体にちりばめられているそれを自分で確かめてみるべきです。どうなんでしょう。実際キリスト教会では、このことをどれぐらい語られているのでしょうか。戦後、日本の多くの教会は、教会成長ということを誤解し、世俗化の一途をたどって来ました。それが、あまりにも当たり前になっているので、いったい何が世俗化、妥協なのかすら混沌として分からなくなっているでしょう。聖霊は語られず、御声は聞こえないからです。人に気に入られる、社会から受け入れられるという事を追い求めたからです。
それのどこが問題なのだ? と問うでしょう。そういう事が起こるのは、イエスが弟子達に残した迫害の予告や、パウロの手紙の重要な部分を黒く塗りつぶして、まともに読んでいないからです。昨日に続いてまたガラテヤ書で行きましょうか。
こんなことを言って、いまわたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。 ガラテヤ1:10
説明が要るでしょうか? この両者は対立概念なのです。これをしっかりに頭に入れておかないと、重要な場面で判断を狂わせます。最初に入り込んだ小さな妥協、ほんのちょっとのパン種が練り粉全体を膨らますのです。いったんそこに流れれば、そこから回復するのには、大変大きな犠牲と悔い改めを要するでしょう。ほとんど自力での回復は無理なのかもしれません。イスラエルのように、預言者が外から使わされてすら回復は難しいかもしれません。
また、両者が両立するのでは? という質問もあるでしょう。うん、確かにそうだ。神に愛され、人に愛されるとね。でも、それだけを見るならば、十字架を欠如している。なぜ、イエスは十字架にかからなくてはならなかったのか。また、なぜ我々に「日々自分の十字架を負ってついて来い」と言ったのか。その意味がよく分かるのは、神に気に入られようとする道を直進していった人だけだ。
さていつものことだが、本題に沿っているのかどうか分からなくなってきた。そう、イエスの再臨の話だった。これによって携挙される人は、彼を信じ待ち望む人、またはそうして死んでいった人だろうが、それに関して、先日の血を注がれる出来事があってから、私の考え方に大きな変化があった。それまでは、いち早く地上の生涯が終わることを望んでいた。しかし、今は違う。その逆で、再臨を先延ばしにしてほしいと願っているのだ。まだ救われるべき魂がある。だから、もうちょっと待ってくれ、、、と。これが、とりなしということなのだろう。こういうことは、以前の私にはなかった。
それは、今日来るか明日来るかもしれない。そうやってパウロは駆け抜けた。あれから二千年近くが経ったが、未だそれは来ていない。馬鹿だなぁ、そんなことあるわけがないだろうが、今の科学が発達した時代に高等教育を受けたあなたがまともにそんなことを信じているのかい? と嘲笑するだろう。これまで終末論を展開し信者を集め、また消えていった新興宗教がたくさんあってこれからも起こるだろう。しかし、それは崩れたコピーでキリスト教が本家本元だ。多くの偽預言者達が現れる中、主は盗人のように来るだろう。
by dynabooksx
| 2011-02-12 08:18
| 真也の視点