2011年 02月 08日
宗教はOK、聖霊はNO
2月8日 宗教はOK、聖霊はNO
しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。Ⅱコリント11:3
福音主義のキリスト教は、窒息しそうであえいでいる。私たちはたまたま、涙や、祈り、信じることなどについて、好んで歌う時代に住んでいる。そして宗教的な言い回しをどこでも見ることができる。肉と悪魔にささげられた世的なプログラムの中にさえそれは見られる。
昔からの富の邪神(マモン)は、目に一ドル銀貨をつけ、教会の最上位に座って、製品の品質について嘘をついている。礼拝の最中に、信心深く聞こえるように、劇団で訓練されただれかが、さも感動したような声をあげて、「さあ、これが今週の賛美歌です!」と言う。こうして割り込んできて、バンドがプカプカドンドンと始め、悪魔が聞いても赤面するようなものを歌い出す。
人々はそれを宗教と呼ぶ。私もそれが宗教であると認める。しかし、それはキリスト教ではないし、聖霊でもない。それは新約聖書ではないし、贖いでもない。それは、単に宗教を利用しているだけである。
誰でも、聖霊の油注ぎなしに神の御子を代表していると思うことは、最も向こう見ずな推定である。
+++++引用終わり+++++
この書き手も私と同じで、中世に生まれていたら、きっと火あぶりにされていたと思う。残念ながら、キリスト教とそうでないものの違い、クリスチャンとそうでないものの違いを明確に見分けられるものは極めて少ないだろう。
だから、キリスト教会を見て、外側の人こそ、「いったい何がキリスト教なのだ??」と疑問を持ち混乱するのだ。信徒はそれぞれの基準で、その正当性と異端とを判別する。それは自分に恐れや不安が強いほど色濃くなるだろう。こうして旧約の預言者たちは殺され、イエスもまた十字架につけられた。それに続いた多くのキリスト者達もまた、自分が正当だと思う同じクリスチャン呼ばれる人達に殺戮されてきた。その事実はいくら隠しても消えるものではない。世の一勢力として主流になろうとするキリスト教会は、必死に否定するか、自分には関係がないと言い張るが、結局同じ事をすることになるだろう。
目に見える血は流さないだけで、見えない所で陰湿なことが行われる。しかしかの日、全ての事が白日の下にさらされるだろう。神はそれを知らないわけではない。知りつつそれを忍耐しておられるのだ。いつもそうだ。その許容を甘く見て、善悪はないのだ、そんな判断を下す神などいないのだとあぐらをかいていると、見よ、主は盗人のようにやってくる。それがやってきた時ではもう遅い。歯ぎしりして悔しがっても、もう間に合わないのだ。キリスト教会、クリスチャンと呼ばれる者達は、本来世の人々の光となる者達だ。その人たちが明るさと塩気を失ったらどうするというのだ。それに対する裁きはきっとより厳しいものとなるだろうし、まして教職の立場の人にはなおさらだろう。何がキリスト教なのか、誰がクリスチャンなのか、何が他の人と違うのか、どこに世の集団との違いがあるのか、ここでよく考えてみたい。
しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。Ⅱコリント11:3
福音主義のキリスト教は、窒息しそうであえいでいる。私たちはたまたま、涙や、祈り、信じることなどについて、好んで歌う時代に住んでいる。そして宗教的な言い回しをどこでも見ることができる。肉と悪魔にささげられた世的なプログラムの中にさえそれは見られる。
昔からの富の邪神(マモン)は、目に一ドル銀貨をつけ、教会の最上位に座って、製品の品質について嘘をついている。礼拝の最中に、信心深く聞こえるように、劇団で訓練されただれかが、さも感動したような声をあげて、「さあ、これが今週の賛美歌です!」と言う。こうして割り込んできて、バンドがプカプカドンドンと始め、悪魔が聞いても赤面するようなものを歌い出す。
人々はそれを宗教と呼ぶ。私もそれが宗教であると認める。しかし、それはキリスト教ではないし、聖霊でもない。それは新約聖書ではないし、贖いでもない。それは、単に宗教を利用しているだけである。
誰でも、聖霊の油注ぎなしに神の御子を代表していると思うことは、最も向こう見ずな推定である。
+++++引用終わり+++++
この書き手も私と同じで、中世に生まれていたら、きっと火あぶりにされていたと思う。残念ながら、キリスト教とそうでないものの違い、クリスチャンとそうでないものの違いを明確に見分けられるものは極めて少ないだろう。
だから、キリスト教会を見て、外側の人こそ、「いったい何がキリスト教なのだ??」と疑問を持ち混乱するのだ。信徒はそれぞれの基準で、その正当性と異端とを判別する。それは自分に恐れや不安が強いほど色濃くなるだろう。こうして旧約の預言者たちは殺され、イエスもまた十字架につけられた。それに続いた多くのキリスト者達もまた、自分が正当だと思う同じクリスチャン呼ばれる人達に殺戮されてきた。その事実はいくら隠しても消えるものではない。世の一勢力として主流になろうとするキリスト教会は、必死に否定するか、自分には関係がないと言い張るが、結局同じ事をすることになるだろう。
目に見える血は流さないだけで、見えない所で陰湿なことが行われる。しかしかの日、全ての事が白日の下にさらされるだろう。神はそれを知らないわけではない。知りつつそれを忍耐しておられるのだ。いつもそうだ。その許容を甘く見て、善悪はないのだ、そんな判断を下す神などいないのだとあぐらをかいていると、見よ、主は盗人のようにやってくる。それがやってきた時ではもう遅い。歯ぎしりして悔しがっても、もう間に合わないのだ。キリスト教会、クリスチャンと呼ばれる者達は、本来世の人々の光となる者達だ。その人たちが明るさと塩気を失ったらどうするというのだ。それに対する裁きはきっとより厳しいものとなるだろうし、まして教職の立場の人にはなおさらだろう。何がキリスト教なのか、誰がクリスチャンなのか、何が他の人と違うのか、どこに世の集団との違いがあるのか、ここでよく考えてみたい。
by dynabooksx
| 2011-02-08 19:43