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異端について

キリスト教について、興味を持つ人が最初に不思議に思うことは、たくさんの教派が存在することだろう。まぁ、場所が違えば違う民族や国家、文化が存在するように色々あるのだろうと理解しても、理解しきれないのが、それぞれがなぜ対立しているのかということ、、、。愛、愛と口では言いつつ、互いに反目し合い、何かと相手をコケ下ろそうとし、またそれに対する自分の優越性を主張しようとする。こういう所が矛盾していて受け入れられないと主張なさるだろう。

最もなことだと思う。たいていの信者はこう問われると、自分のことではないように振舞うか、そんなことはないんだよと否定にまわるだろう。しかしこれは厳然とした事実なのだ。さらに小さく見積もれば一つの教会内でも似たような派閥争い、勢力争いがあるかもしれない。内部にいる人はそれが当たり前になってしまっているが(普段生活している社会がそうなので、、)、教会に救いを求めてきた人は、講壇から語られる言葉と現実の遊離を誰よりも敏感に察する。こうしてまた、失望しては去っていくのだ。教会内に於いても、多くの場合、人間の集まりだから仕方が無いと、そうやって去っていく人の後を追うことは少ないのではないのか、、。


今度はもう少し大きく見積もって、今度はキリスト教派生と呼ばれる異端もしくは、キリスト教の周辺地区やアンダーグラウンドな感じの活動をしている人々について、、、。自分のことに精一杯で、まったく関心がない信徒がいる一方、逆にそのようなキリストの名を借りて、その高貴なイメージをうす汚してしまうような異端共を攻撃、退治することに夢中になる人もいるようだ。こういうことをするのは大抵なにか社会的な肩書きをもっていて、自分はそのグループのリーダーだという自負のある人物、牧師のような立場の人に多いことだろう。自分や群れを守ろうとする正義感もあるでしょうから、、、。

その心理を少し測ってみるに、まず言えることはその人の背後に、「恐れ」や「不安」が色濃くあること、、。まぁ、そう言うと極めて強く否定するだろうが、その反応こそが事実を証明するだろう。自分と性質が違うと思うものを攻撃する心理、しなくてはいられない心理にはこういう背景がある。私の場合は喜びと好奇心なのだが、、(爆)

強い不安を抱えていれば、それを何かで解消しなくてはならない。もくもくと湧き上がってくるそれを何か自分の外側に理由を作って仕立て上げて攻撃しなくては身が持たないのだ。でも、残念ながらそれでもその不安は消えてくれない。しかし、一時的ではあるが、その攻撃性を自分ではなく外に意識を持っていくことで一瞬解放を得ることが出来るのだ。

こうして、本人も気がつかないうちに、犠牲者を増していく、、、。ここまで読んで勘の良いひとは「あっ、あの人のことだ!!」とか「私のことだわ!」と気がつくでしょう。人の「不安」はこのような行動に走らせるのです。攻撃性を外に出すことを良しとしない人は、それを内側に向ける。そうして自傷行為や自殺へと走るわけです。

これを解決すべしと人々は宗教へと走るのですが、本当に解放を得るひとは極めて少ないことでしょう。一瞬楽になったような気がしても、すぐにぶり返してくる不治の病のようなものだからです。私も以前は、同じように思っていました。確かに、自分の創り主なる神に出会っている。自分の罪がすでに贖われたことも知っている。しかしどうだ。しばらくすると、また存在不安が襲ってくるとはどういうことなのだ。


ヨハネ4章
イエスはユダヤを去り、再びガリラヤへ行った。しかし、サマリアを通らなければならなかった。
シカルというサマリアの町には、ヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っていた。そこへサマリアの女が水を汲みにきた。イエスは女に「水を飲ませてください」と言った。女は驚いた。なぜなら、ユダヤ人はサマリア人と仲が悪いからである。
イエスは女に言った。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。わかしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。



教会では、この話しをみんなうんうんと言って聞いている。しかし私は、とても首を縦に振ることが出来なかった。その人の内から、泉のように永遠の命に至る水が湧き出るとはなんの事なのだ。まぁ、「永遠の命」がよく分からないにしても、泉のようにどこまでも湧き出て限りがないというのは、自分に当てはめてみるとまったく現実にそぐわない。俺のはむしろ、また渇く水だ。イエスのやろう嘘つきやがったな、、、。もしくは、俺が大きな勘違いをしているのか、、、。


ちと待てよ、またテーマの「異端」から大きく外れているような、、。まぁ、いいか。同じような疑問を持たれている皆さんいらっしゃいませんか。教会で何度も何度もその水を飲みたいと願って足を運びはするけれども、潤したとおもった瞬間にまた渇きが来て、むしろ前よりも酷くなったとさえ思うという方、、、。偉そうな物言いをしますが、「そういうあなたを、神は本当に大切に思っています」 あなたをどうやっても、その命に至る水に行き着かせようと苦慮しておられるのですね。今現在感じているあなたの渇きはそのための原動力なのです。渇きによってより、それを慕い求めようとする思いが湧き上がってきます。その行き先には、必ず神が与えようとしておられるゴールがあるでしょう。


ルカ11:11-13
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」



あれ、引用しようとしたら、あっさり答えが出てしまいました。永遠の命に至る水の泉の正体。神が私達に与えたいと思いながらも、私達がそれを拒絶するゆえにぐっとこらえておられるもの、、。皆さん聖霊がほしいと思うでしょう。しかし、拒否しているのです。求めているといいつつ、最後のところで断っているのです。イエスは、「私を否む者は赦されるが、聖霊を否む者は赦されない」と語った。この意味が分かりますか? あなたは聖霊を知っていますか? 

イエスを受け入れるか入れないか、従うか従わないかをあれこれ考えることは出来るでしょう。しかし、聖霊が来たときそんなことは言っていられなくなります。全力でその促しに追従するだけで、拒否し続けるなんて、そんな恐ろしいことに及びもつかない。耐えられないのです。だから、聖霊のバプテスマ、聖霊の内住を受けた人は、片道切符であとで戻ってくることはあり得ない。もう、さよならです。自分のための人生は完全に終わるのですね。そんなことを、皆さん、本当に望みますか? まだやりたいこと、手に入れたいことたくさんあるでしょう? 当然ですよ。もし赤紙が来たら、そんな悠長な人生もそれで終わりですからね。

こういうわけで、多くの人は聖霊を拒絶するのです。俺なんて、たった一ヶ月ちょっとでこんな状態なのに、あと何年寿命があるのか分からないけれども、最後まで前のめりに走り切れるんだろうか。長生きしたいなんてとても思わない。出来る限り太く短く人生を燃焼させて、良くやった僕だと冠を受けられるように身を打ちたたいてでも走り切りたい。ごめんなさい。異端とは全く関係なく、行き着く先は聖霊でした。一致と回復をもたらすのはコレだということで、無理矢理まとめにします。
by dynabooksx | 2011-02-02 06:14 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
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