2011年 01月 28日
恵みを受けるには
私の記事はどうしても、私が知っているキリスト教会に繋がりながら、病んでいる方達の事をイメージして文章を書いてしまうのですが、いつももう一歩だと言うところで残念に思うから繰り返し欠かざるを得なくなるのです。
突き詰めて聞いてみると、彼ら(彼女ら)は結局、「恵みは欲しいが、神に従いたくない」と言う。こうすれば、神は祝福を与えて下さると聖書に書いてあるぞと話すが、この行き詰まった状況を救って欲しいと願うと同時に、既に破綻しかけている慣れ親しんだ自分の生き方に固執し、それを手放すことをよしとしない。
これでは、都合が良すぎるのではないのか。神の恵みを受けたいと望みながら、その支配は受けたくない。それは土台無理な話だ。両方とも逆向きの性質のものを同時に求めているからだ。神を自分に従わせることは出来ない。もちろん、その過程としてヤコブのようにさんざん神と格闘して力を出し尽くすことは大事な要素だと思う。これなしに、私達は自分を折るということが出来ないからだ。恵みがほしいと思ったら、力の限り求め続け、たたき続けることだ。
今朝のミーティングの箇所は、
であった。
信仰というものの定義である。この箇所の前後では、人は何によって神に認められ、また恵みと祝福を受けるのかが記されている。これは確かな事実であるから、とても受け入れられる状況でなくても、その小さな信頼でもって受け入れていった者が実際にその世界を体験し、まだ実現していないのにも関わらず、それが必ず成ると信じて感謝することができる。そういった、確かな人生を送ることが出来る。神を信頼すれば、神は喜んで下さり、その喜びに私達も預ることが出来る。こんなことは、その道に入った人しか分かりっこない。
外から眺めているだけでは、何も感じられないはずだ。中に飛び込まないで、外からうまい汁だけ吸おうとするのはなかなか難しいようだ。何とかそれを提供したいと願うが、その源が私ではなく神なのだから私の勝手が効くわけではない。だから、我々はその生き様でもってそれを示す以外になかろう。
冷たいようだが、それが事実、この世界の真実なのだから仕方が無い。崩れかかっている古い生き方を手放すしかないのだ。それを手放すのなら、きっと神が受け止めて下さる。それが信仰なのだ。
この箇所について二つの意訳聖書を紹介しましょう。
さて、信仰とは将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり、まだ見ていないものの確実な証拠を見る目である。現代訳
信仰をどう定義したらよいでしょう。それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。また、何が起こるのかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです。リビングバイブル
まず、この文章を書いているのはパウロだということを意識する必要があるでしょう。神から受けた使命を果たすことだけに自分の命を燃焼させたパウロ。その彼が信仰について定義し、彼の生きた現実、実感でもって語っています。パウロだけでなく、神に認められたかつての信仰者達も同じ告白をしたことでしょう。
信仰者にとって、目に見える現実は、確実なものではありません。それは事実の影のようなもので、見えないものの中に真理があることを知っている。だからそれを確かに望みつつ、これから起こることを既に成ったことのようにし確認することが出来る。神が為そうとすることは必ず成るからである。
私は結婚に至るとき、『あなたを祝福する』という声を聞いた。それは、あなたの信仰を祝福するという意味だ。私は、破滅しかかった自分の人生を諦めて、もし未来があるのならご勝手にしてくださいと委ねた結果、それを神は喜ばれた。その喜びは明確に私の心の変化となって返ってきた。その延長線上に今の私はいるわけなのだが、委ねる度合いが大きいほど祝福と恵みも増す構造になっているのだ。
普通目に見えないものに委ねるということほど不確かで、不安なことはないと思いますが、よく考えてみると、私達が目にしているものがどれほど確かなものなのかと私は問いたい。どれも形あるものはいずれ崩れ去っていくものだ。あなたが確かに握っているというものが、あなたが窮地に陥ったときに、実際どれほど頼りになるものかよく評価しておくべきだ。信仰とは、確かなものを仰ぎ見て、心から信頼することだ。本当に信頼するならば、その方が示すままに生きるようになるはずだ。信頼するのならば、従わないということはあり得ない。
信じて従う者を神は祝福される。
by dynabooksx
| 2011-01-28 10:38
| 真也の視点