2011年 01月 06日
教理を捨て聖書に帰れ
タイトルはそのままもらった。捨てなくても、、、と思うが、本当に聖書に帰っていくのなら、教理のガイドなど必要を感じなくなって行くのが実際だろう。この一連の文が、いつ頃からアップロードされたものなのかは分からないが、文を書く際私が検索するとなぜか何度も引っかかってくる。見てくれ、見てくれと言わんばかりだ。
ニューインマヌエル
名前がちょっとあやしい。ニューインマニューエルとか言って妻と笑っている。それはさておき、よく読んでみると、韓国の教職の方が書いているようなのだが、私が直感するに、一部預言的内容を含む聖霊の器だろう。今回はその中から、聖句主義にも通じる所を一つ取り上げたい。
教理を捨て聖書に帰れ
いやいや、良く書けていますねぇ。いったい何者なんでしょうという感じです。これまで私は、聖句主義と教理主義という二つの対立概念として書いてきました。普段教会に通われている平均的なクリスチャンであれば、教理主義が色濃く根付いているはずですから、二つを意識するというよりも別な存在を意識することすらないかもしれません。でも、これまでの議論ではっきりと述べてこなかったことが一つあります。私のスタンスは、聖句主義だとも言えますが、実際には聖霊主義だと言った方分かり易いと思う事です。最近あることをきっかけに、聖書の中の聖霊に関する記述(聖書全体がそのことを述べているのだが、、、)が急激にクローズアップされて見えてきた。肌に触れ感じるほどになってきた。例えば、どのような所が浮かび上がってくるかというと
ヨハネの手紙一 / 2章 27節
しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
あえて議論になるであろう所を引きました。「油」というのは聖霊のことです。こういう所を引用するのを見ると、良識あるクリスチャンの方々は、あ~、真也君は盲信、狂信かな??になってしまったと思うかもしれません。でもそういう人はそもそも聖霊がどうの、とかいうことを話すことすら嫌がるのではないでしょうか? 私達には教理があるのだとか言って、、、。聖書に普通に書いてあることなのに、なぜそういうことになるのでしょうか。本文を引用させてもらいましょうかね。
教理は、論理という道具を使って聖書の事実を論証し、信仰に到達させる。ギリシャ文化の影響下にあるこの世は、論理という方法で検証、確認されたものを信じるため、この方法でなくては何事も理解させることも説得もできない。この世はこの方法によって他人を理解し、事物を分別、認識する概念を持つようになったのである。
しかし聖書は、こうしたこの世の方法ではなく、ただ聖霊の導きと教えを絶対的に信じ、その信仰の方法で人を理解判断し、事物の真偽と善悪を分別する認識と概念を持つよう語っている。
教理の発達は、つまり聖霊なくとも救いに至ろうと言う、人間のはかりごとから出た人間の計略であり徹底した人本主義である。
教理は、信仰の最後の断崖絶壁の端に掛けられた手すりであり、防柵線の様な最後の信仰の手段と方法なのだ。
あ~、そこまで言っちゃいますかという感じですが、教理主義は人本主義であろうという見方にアーメンです。もし、スタートはそうではなかったとしても結果そのようになりました。教理こそがという方は、これまで十分頑張って来られたのですよ。お疲れ様でしたと心から言いたい。何とかキリスト教会が消えてなくならないようにと必死で戦い守ってきた。それが最後の砦だと思ったからでしょう。
でも、私は言いたい。聖霊が来たら、もうそれは必要なくなる。それなしに人々にダイレクトに真理を悟らせるようになる。それまで聖書に全く触れたことがなかった人も、いきなり聖書の中に真理があることに目覚め、それを確かめようと読みふけり没頭するようになる。その際に、もはや教理のガイドなど必要を感じないだろう。そういうタイプの信仰者がこれから、急激に増えてくると私は予感する。実際私自身がこのタイプなのだが、この時代に神は、直接その霊を多くの人に注ぐのを感じるからだ。
教理こそが、という方々へ。確かに、一見荒唐無稽に見える聖書に立ち向かうに際して、長い間議論され編み出されてきた教理を用いて食いつくことで、足がかりを得、中に進入する事が出来るかもしれません。ただ、こうして私が説明に用いている言葉のとおり、これは人間の側からのアプローチなのです。これが人本主義を言われる所以です。どういうわけか、この方向のアプローチを取る限り神から流れる豊かな命は、流れてこないような構造になっているようです。
実際、教理を積み上げて人に教えて、どれほどの人が救われたでしょうか。仮にあなたの努力によってその人が救われたのだとして、その救われた人はさらなる救いへと赴きましたか?
これまで教理によってキリスト教会は、聖霊の働きが乏しいと感じる厳しい時代をなんとか乗り切って来ました。それが「信仰の最後の断崖絶壁の端に掛けられた手すり」だったのです。パウロの時代に教理はまだ存在しませんでしたが、彼が生きていればきっと律法と同じく、教理についてもそれは養育係に過ぎないのだと言ったことでしょう。ただ、まもなくその時代は終わるでしょう。いや、よく気がつかないだけで音を立てて目の前まで変化が迫っています。聖霊が強力な息吹になってあたりを飲み尽くす時が日本にも来るでしょう。もし、そうでなければ一時経済大国だとしてもてはやされたこの国の未来は、見るも無惨な姿になるでしょう。それは、多くの人が不安の中に予感として持っているはずです。
続いて異端について書こうと思いましたが、別な機会にします。自転車乗ってる暇がねぇなあ、まったく。
by dynabooksx
| 2011-01-06 06:10
| 聖句主義について