人気ブログランキング | 話題のタグを見る

なぜ人は環境に順応しようとしてしまうのか?

 昨日こんな記事を目にしました。

なぜ人は環境に順応しようとしてしまうのか?

さほど長くはないので本文をそのまま載せますね。


~~~以下本文です~~~

研究によると、我々人類の脳みそは、順応することによって、安らぎに似た気持ちを経験し、社会的な非難を受けることを危険と認識するそうです。よって、順応することを自然と求めてしまうのは、本能レベルでの話なのかも知れませんが、これがいつどのようにして起こるのかを知ることによって、意識的に自分で選択できるようになります。

「Psychology Today」のノーム・シュパンサー博士によると、人は順応することで安心感が得られるため、自然と環境に順応しようとしてしまうそうです。


哲学者ハンナ・アーレント氏は、ホロコーストの残虐性は精神異常によってもたらされたわけでは決してなく、正常な人たちに異常なプレッシャーを与え、順応させることによって可能になったと議論しました。その後行なわれた研究では、与えるプレッシャーは極端に強力なものでなくても良い、ということが明らかになったそうです。

実際問題、必要なのはプレッシャーではなく安堵感なのです。人は集団で生きる動物であり、巧妙に形成されたグループとしてしか生きていけません。人は、個人レベルでも周りにあるものに機敏に反応し、他人とできるだけ同じように行動するようにできています。最近の研究の結果、我々の脳は社交的な拒絶を危険と認識し、順応性は安堵感をもたらすことが明らかになりました。


これには2つの理由があります。まず、あるシチュエーションでどうしてよいのか分からない場合、私たちは何が起こっているのかの手がかりとなる情報を探します。どうしていいかが分からない場合、私たちは本能的にその状況に慣れているかも知れない、または慣れているかのように見える他人の真似をします。普通に見える、または不安を感じていないように見える他人の行動を真似たり、その他人からヒントを探すのが人間の本能なのです。

基本的に、人間は順応することによって学習する動物であり、本能的に順応するようにできているのです。何かのやり方が分からない場合、誰かがやるのを見てから、その真似をしようとします。観察して学習するというのは、決して悪いことではないのですが、確信を持てない場合でも探し出した情報を簡単に信頼してしまう、という傾向には問題が潜んでいると言えます。

他人を真似ることによって順応するというのは、その他人が、実際その状況で何が正しいのかを知っているかどうかとは関連がありません。その行動が正しいのかどうかを、客観的に理論的に判断する前に、我々は他人の行動を感情的に捉え、その行動を本能的に模倣してしまいます。誰かが自信を持って何かをしているように見えた場合、大抵、我々はその行動が正しいかどうかについて考えないようです。

~~~本文終わり~~~


う~ん、興味深い研究ですね。まず脳が、順応を安らぎと感じるということについて、、。私はいつも人間は結局「快」の情報の方へ流れて行くという話をしていまして、自転車のトレーニングにもこれを当てはめています。身体的にはかなりストレスを伴うスポーツなので、トレーニング自体にいつも「快」の部分を持ち続けないと、そのうち嫌になっちゃうよと、、、。

日本人は特に「和」を重んじ、周りに馴染むことを旨としているといいますが、このような安心感が作用しているのでしょう。ただ反対に安心感の裏に、他と違う人間だと見られたらどうしようという不安が潜んでいるのでしょうが、、、。

でも、日本人だけでなく一般に人間とはそういうものなのでしょうね。たまに私のように、他とすこし違うように生きようとする変人も現れるでしょうが、これも上記の延長の理論で説明できそうな気がします。


つまり、どこの世界に順応しようとするかということ、、、。人はその見ている(最もリアリティがあると認識している)世界に馴染もうとするのではないのか。それは価値観とも言い換えることが出来るだろう。その人に映っている世界の価値観が何であるのか、その基準に従って人は順応し考えをまとめ、行動していく。周りから見て、私がちょっと変わった生き方をしているように見えるのは、それは違う世界を見ていて、そこからくる価値観に順応しているからだ。それが心地よいと感じる。もし、他の人とそれが異なったとしても、自分が普段馴染んでいる世界の方を基準に考えるであろう、それだけのことなのだ。

確固たる自信、信頼を心の内に抱いている人を見ると、知らずと回りの人もそれを模倣してしまうのかもしれませんね。人が何かを信じ始めるとき、真偽判断は別として、そういうきっかけがあるのかもれません。クリスチャンならば、イエス、またはパウロを模倣するという風に、、、。


 ↓ とここからは、クリスチャン向きです。

>実際問題、必要なのはプレッシャーではなく安堵感なのです。

とここからはキリスト教の内容になりますが、キリスト教会は「罪、罪」と迫りますが(それすらも最近はあまりしないのかな? 人が居やすい雰囲気にしようとかいってね)、人々が必要としているのは「安堵感」です。確かに「罪」が浮かび上がらないとそこから続くものも浅くなると考えるでしょうが、実際に先に立つのは「安堵感」であり「赦し」なのです。それが先にあって、その保護で囲われて初めて、人は自分の罪について考える余裕が生まれるのです。

多くのキリスト教会は「赦し」と言葉ではいいながら、実際には戒律でがんじがらめになっていますから、それを力強く主張できません。十字架の声が聞かれなくなって来るのはそのためです。赦しを口にしながら一方では信者を自分の所に縛っておきたいので、自己矛盾してしまって突き通してそれを主張できない。教会の指導的立場にある方々には、このことをもう一度考えてもらいたい。自分が伝えたいことはいったい何であるのか、、、を。
by dynabooksx | 2010-12-14 06:36 | 真也の視点

真也の歩み、愛理の子育て日記。私たちは福島第一原発5kmの双葉町民。時代は動く。私たちはその目撃者になる。画像のペレット&薪ストーブは、真也の施工作品。新天地を暖かく燃やし照らしてくれる。
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31