2004年 10月 13日
非常に単純なこと
なぜだったのだろう。他人の人生は生きられないので想像でしかないが、導き、生かされているという実感があったからだと思う。どんなに生きていくのが馬鹿らしく思ったとしても、自分の力で生きているという感覚が時間をかけてなくされていっていたのだ。人に会うのが嫌になって一年以上も部屋に閉じこもっても生きていた。同じ事を延々と考え、同じところを回るしかできなくとも、その先の人生があった。その前を思い起こしてみても、自分の道は自分で切り開くと考えて進んできたが、今になってみると私が何を誇れるというのか。なんと情けない人生だと思われるだろうか。そう情けない人生なのである。でも、この生き方がとても心地よい。縛られずに変化を楽しめるのだ。人と交わるのも楽しみだ。確かに、ほとんど防御線を張っていないのであっという所で地雷を踏むこともある。でも、それもめったなことでなければ死ぬほどのダメージを負うことはない。なんせ、生かされる限り生きるのだから、、、。時間が経てば新しい力も沸いて来る。それを待てばよいのだ。
では、誰が私を生かすのか。それが大きな問題だ。クリスチャンである私はそれを創り主と呼ぶ。私を、母の胎内に形作る前から私に対する計画を持っていた方だ。キリスト教に関する書籍を探せばいろいろ難しいものがあるだろうが、私は単純なことなのだと思う。つまり、世界は神の支配の中にあるということである。山浦さんの言葉を借りると、神様のお取りしきりの中にいんだから心配すんなってことだ。神様のお取りしきりがある限りは自力で生きる必要はない。全て任せてしまってよいのだ。自分を偽る必要もない、よく見せようとする必要もない。人ではなく、神様が取りしきってくれるからだ。なんという開放感だ。きっとこう感じるのはどちらかというと私が、取りしきる側の人間ではなくて取りしきられる側の人間だからなのだろう。人間の取りしきりほど窮屈なものはない。自分の胸に手を当ててみればわかるというものだ。
私たちの結婚式のスピーチで、親友が素晴らしい事を語ってくれた。
真也君はどうしてこんなに無責任な人なんだろうと思う。どうしてそうなのかなと思って聞いてみると、神様が責任を取ってくれるから大丈夫なんだと返事が返ってきたと、、、、。
周りの出席者は何を言い出すのだろうとやきもきしていたようだが、彼は私と一番苦しい所を共に通り抜けた戦友だ。妻を抜けばもっとも私をよく理解してくれている人だろう。出会ったころは、いい加減でもっとも苦手としたタイプだったのに、今は離れていても思い出すと切なくなる。吾一近いうちに遊びに行くからな。神様のお取りしきりを求め続けた仲間だった。
by dynabooksx
| 2004-10-13 15:22
| 真也の雑記帳