2004年 10月 03日
私がテーマとした事
それは『 人が人を裁く事 』であった。私のしたかった事はこれを証明することだったのだ。通常、教会というのは人が人を許す所ということになっている。しかし実際には、なかなかそううまくはいかない。千年以上も神に愛され、導かれ、どの民よりも熱心であったイスラエルの民でさえ旧約聖書の通り何度も神を裏切り、終いには神の一人子を殺してしまうからである。
批判をしてはいけないと教会で聞く事がある。この事に対してタブー視して極端に避けているように見える事もある。なぜだろう。私のこれまでの歩みを振り返ってみると、批判、抗議し続けてきた人生だった。前にも書いたが、幼稚園の時のお遊戯の時から先生に反対し、最後まで参加しなかったのだ。だから、人の意見が自分とは違っていて分かり合える事には限界があるというのが私の中の常識で、自分の心が共有する事が難しいと思った頃から一人でいる事を好んだ。思うことを表現すれば衝突は免れないからである。そんな私の心に一つの解決をもたらしたのがキリストの十字架だった。彼は私が非難、批判し、必要ないと裁いたのにも関わらず私を断罪することなく、その罪を代わりに負って死んでいった。そんな話はそれまで聞いた事がなく、どんなに努力しても制御しきれない自分の心を自然に受け入れ、解放されていくのを感じた。それでは世の中をうまく渡っていく事が出来ないと抑圧し、切り捨てようとしていた自分の一部分と和解した時、すでにそれは私を苦しめるものではなくなっていた。繰り返しになるが、このことに関して私のどんな努力も効果を発揮しなかった。何とかしようと試みれば試みるほど泥沼にはまっていった。自分に失望する他はなかったのである。
そんなだから、自分を愛せない人を見るとなぜか反応してしまう。こればっかりは自分でもどうにも出来ない、見てみぬふりが出来ないのだ。振り返ってみても記憶に残っている深い人間関係のほとんどはこのパターンだ。妻との関係もそうだった。かつて自分自身を受け入れることの出来なかった私が、まして他人を受け入れるなどという事が不可能な事はよく分かっている。だから、私にはキリストによる新しい関係が必要だったのだ。
時に優しさが人を傷つける事がある。相手を傷つけたくないと思うばかりに、間に距離が出来、その緊張状態によって強いストレスを引き起こす場合である。こういった場合、一つ難しい問題がある。それはその行動の名前が愛情だったり、善意だったりするからである。それでいて中身がそうではない場合(人の愛には限界があると思う)それを受ける人は、行為を拒絶する事が難しい。相手が善意でしてくれているのだからと思うから、防御線を張れないのである。どんな人も受け入れる所だという事になっているキリスト教会はここが難しいのである。実際は出来ないのに、出来るはずだと思い込んでしまう。どこをどう頑張っても十字架以外に解決法はないのである。以前、数年間も新来者が来ない教会で、同じように新しい人が来るようにと祈り続ける方に、『嘘をつくな』と言った事があった。内容はこうだ。
いつもいつも新しい人が来るようにと祈って入るが、本当に来た人を受け入れる準備があるのか、大体にして自分が受け入れられているという実感がないのにどうして人が来る事を期待できるのか、100歩譲って本当に願っているのだとしても自分の考えに適合する人だけ来てほしいのだろうという内容だった。
これは私自身の叫びであった。自分達は口ではwelcomeを言ってはいても、実際には人を受け入れていないのだと言う事を伝えたかったのだ。無論、そういう人達を私が受け入れていないのはいうまでもない。もしその現実を受け入れ、人は人を受け入れられるのだとしたらら、それをする事が出来ない私はそこで死ぬ事になるからだ。この表面的な歓迎はこれまで多くの新来者達を失望させていったのだと思う。たいていは何も言わず距離を置いてゆく場合が多いだろうから、私のような場合は希であろう。私は、人は人を(自分自身を含めて)裁くものだという事を知ってもらいたかった。そしてそれはどんなに自分でコントロールして押さえ込もうとしてもどうしようもなく、むしろそれをすればするほど暴走し水面下に潜り苦しめるのだという事を、、、、。その為に、人を非難するという私を見せる必要を感じた。問題児になる事によって裁いてもらう事を望んだのである。思い起こせば私のやり方は、最後はいつもこのやり方だ。人によっては大変迷惑な部類だろう。以前書いたように私は子供に人に迷惑をかける子供になりなさいと教えているので、すくすくとその様に育っている。というか私の指示がなくても十分その様になっているようだ。私の経験上、そういう迷惑行為を繰り返す毎に、それまで自分を偽っていた時には得られなかったような深い人間関係が出来て来た。その裏で嫌な思いをたくさんした人は居ただろうが、、、。私はそんな自分の事しか考えていない人間なのである。まぁ、そんなんでも神はまだ生かしていてくれるのだからという事で勘弁してほしい。
今回、私は教会を批判した。自分を偽る事によって気に入ってもらおうというつもりなど毛頭ない。いい人を演じあっている膠着状態が我慢できなかったのだ。予想以上の反応だったので驚いたが、それはそれだけ抑圧されていたものが大きかったのだろう。その後どうなっているのだろう。急いで福島まで帰ってきたが、今日はそれを知るチャンスがなかった。
by dynabooksx
| 2004-10-03 22:28
| 真也の雑記帳