2004年 09月 28日
友へ ②
メールであなたが指摘してくださった事は事実です。その通りであろうと思います。私には他を批判するばかりで愛がない、許す心、受け入れる心を持たないと書いてくださいましたね。それは本当の事です。事実なので反論する気になりません。でも、一つ言わせてください。これまで、私は、自分には人を愛す力、許す力、受け入れる力があるとあなたに言った事がありましたか? もしそういう風に思っていらっしゃるのなら、それは誤解です。どこかで私がそういう印象を与えてしまったのかもしれませんが、、、、。
きっと長い間極度の孤独の中にいたのでしょうね。いくら神様がいればといっても、現実人間の助け手は必要でしょう。ずっと距離を感じていた人々と近づく事ができたのでしょうね。良かった。もう私がいなくても大丈夫なのでしょうね。むしろいないほうがいいのか、、、、。前の友へで書いたように、あなたと過ごした時間本当に楽しかったよ。結果としてあなたを悩ませ、傷つけてしまったのだろうけれども、、、。ごめんなさい、あなたの守る大事な羊達を大いに動揺させてしまったのに、それでも飄々としているのだよ。できれば、あなた方の所にいって弁明したい。もし、私に何らかの興味があるのなら、出入り禁止の決定をした牧師さんをはじめ、役員の皆様のところで弁明をしたい。私が何を思い、何を考え、何を願っているのか。神の前で、人の前で弁明をしたい。私は、何も隠したいと思うことはありませんよ。私の全てを調べまた評価してほしい。もう一度いいます。私は欠け目の多いものです。愛のないものです。批判をし、人を傷つけるものです。それは事実です。それでもなお、いやそれだから、ハレルヤ。私を創り、キリストを送ってくださった方に栄光あれ。キリストは、そんな私の為に十字架にかかって下さいました。私が、あのイエスを十字架にかけました。その方によって、私は真に生きるものとなりました。私は、死にいく体を持った欠け目だらけのものですが、それでもなお私は喜びます。罪人の私の為に、十字架が立って下さったからです。これがある限り、どんなに人に拒絶されようと生きて行けるのだよ。
牧師さん、また教会役員の皆さん、まだ甘いですよ。私を排除するだけでは不十分ではないですか? まだ私は生きているのですよ。信徒を守ろうとしても私はまだ近くにいるのですよ。守りきれますか? 私に鉄槌を下すのがもっとも効果的でしょう。私の心には自由があります。キリストと共にいる自由があります。いくら会議で決まったと言われても、私の心は不思議な事にまったく制限を感じていないのですよ。これは私でも止められないのです。すいません。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 ガラテヤ人への手紙2:20
どうか、皆さんの前で弁明させてください。皆さんの裁きを受けさせてください。謝罪をさせてください。
by dynabooksx
| 2004-09-28 07:06
| 真也の雑記帳